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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
草津城(安芸国)
くさつじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒733-0851
広島県広島市西区田方1丁目6−7
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
児玉就方
、
児玉就英
草津城(安芸国) 年表
天文24年 1555年 10月1日
厳島(安芸国)に滞在中の
陶晴賢
を
毛利元就
が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」
天正4年 1576年 7月12日
毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・
児玉就英
・
戸川秀安
・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・
村上吉継
・乃美宗勝・
村上元吉
が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)
天正4年 1576年 7月13日
大坂本願寺
に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・
児玉就英
・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・
村上吉継
・乃美宗勝・
村上元吉
、宇喜多家の
戸川秀安
が雑賀衆ととともに
堺
津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。
織田信長
も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)
天正14年 1586年 6月9日
児玉就方
が死去する。
出典:-
天正16年 1588年 7月7日
毛利輝元
、
小早川隆景
、
吉川広家
が上洛すべく安芸国を出立する。
輝元は辰刻(7-9時)、
吉田郡山城
(安芸国)を出立する。平佐就言、
佐世元嘉
、二宮就辰が供奉する。午刻(11-13時)、可部渡(安芸国)に到着する。
熊谷信直
・元直が茶屋にて出迎え饗応する。申刻(15-17時)、草津(安芸国)に到着し、海蔵寺にて宿泊する。
児玉就英
が饗応する。輝元のもとに
平賀元相
が礼に訪れる。
出典:『天正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」
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