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城 郭 史
新府城(甲斐国)
しんぷじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒407-0262
山梨県韮崎市中田町 中条字城山
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
武田勝頼
新府城(甲斐国) 年表
天正9年 1581年 11月10日
新府城
(甲斐国)普請につき
上杉景勝
より祝詞と3種・柳50を贈ってきたことに対する礼状を
武田勝頼
が出す。あわせて北条家家臣で戸倉城主(伊豆国)の笠原範定が武田家に寝返ったことにともない出征中であることを景勝に伝える。
出典:(天正9年)11月10日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2202号)
天正9年 1581年 12月19日
武田勝頼
が
新府城
(甲斐国)に帰城する。
出典:(天正9年)12月26日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2259号)
天正9年 1581年 12月24日
武田勝頼
が
新府城
(甲斐国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(8)「武田四郎甲州新府退散の事」
天正10年 1582年 2月1日
木曽義昌
が
織田信長
に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、
菅屋長頼
が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月2日
木曽義昌
の謀叛につき
武田勝頼
が武田信豊とともに
新府城
(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月14日
織田信忠
が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より
森長可
・
団忠正
が木曽峠、梨子野峠を越え
飯田城
(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月28日
武田勝頼
・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月2日
織田信忠
が仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、
森長可
・
団忠正
・毛利秀頼・
川尻秀隆
・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月3日
卯刻(5-7時)、
武田勝頼
が
新府城
(甲斐国)を自焼する。その後、
小山田信茂
を頼り、
岩殿山城
(甲斐国)を目指す。
出典:『信長公記』巻15(8)「武田四郎甲州新府退散の事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信忠
が甲斐国にて
武田勝頼
の所在を捜索し、所在地を突き止めた
滝川一益
が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、
秋山親久
、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、
土屋昌恒
も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」
天正10年 1582年 4月3日
織田信長
が大ヶ原(甲斐国)を発ち、富士山を見物する。その後、
新府城
(甲斐国)の焼跡を見物し、甲府(甲斐国)に陣を据える。
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」
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