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軍役から石高算出
人 物 史
団忠正
だん ただまさ
生 没 年
?-天正10年(1582)6/2
出 身
-
幼 名
-
別 称
平八郎、平八、忠直、忠春、景春、梶原忠正
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
団忠正
配 偶 者
佐渡長重の娘
子
団市兵衛
官 位
-
役 職
-
城 郭
岩村城
(美濃国)
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
○
団忠正の関連文化財
団忠正 年表
- -年 -月-日
団忠正
が生まれる。
出典:-
天正10年 1582年 2月1日
木曽義昌
が
織田信長
に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、
菅屋長頼
が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月2日
木曽義昌
の謀叛につき
武田勝頼
が武田信豊とともに
新府城
(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月12日
織田信忠
が
岐阜城
(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月13日
織田信忠
が高野(美濃国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月14日
織田信忠
が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より
森長可
・
団忠正
が木曽峠、梨子野峠を越え
飯田城
(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月15日
森長可
が市田(信濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月16日
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月28日
武田勝頼
・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月1日
織田信忠
が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月2日
織田信忠
が仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、
森長可
・
団忠正
・毛利秀頼・
川尻秀隆
・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月3日
織田信忠
が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月5日
織田信長
が
武田勝頼
を攻めるべく、
安土城
(近江国)を出陣する。
柏原
(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月7日
織田信忠
が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月8日
織田信長
が
岐阜城
(美濃国)より
犬山城
(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月9日
織田信長
が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月10日
織田信長
が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信忠
が甲斐国にて
武田勝頼
の所在を捜索し、所在地を突き止めた
滝川一益
が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、
秋山親久
、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、
土屋昌恒
も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信長
が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月13日
織田信長
が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月14日
織田信長
が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて
武田勝頼
・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう
矢部家定
に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月15日
織田信長
が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて
武田勝頼
・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」
天正10年 1582年 3月17日
織田信長
が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」
天正10年 1582年 3月18日
織田信長
が
高遠城
(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」
天正10年 1582年 3月19日
織田信長
、
津田信澄
、
菅屋長頼
、
矢部家定
、
堀秀政
、
長谷川秀一
、
福富秀勝
、氏家行継、竹中重矩、
原長頼
、
蒲生氏郷
、
細川忠興
、
池田元助
、
蜂屋頼隆
、阿閉貞征、
不破直光
、
高山重友
、
中川清秀
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
筒井順慶
等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」
天正10年 1582年 3月24日
織田信長
が
武田勝頼
攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」
天正10年 1582年 3月29日
織田信長
が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を
川尻秀隆
に、駿河国を
徳川家康
に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を
滝川一益
に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を
森長可
に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を
木曽義昌
に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を
穴山梅雪
に、岩村(美濃国)を
団忠正
に、金山米田島(美濃国)は
森成利
に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」
天正10年 1582年 4月5日
森長可
が
海津城
(信濃国)に、
稲葉貞通
が城代として
飯山城
(信濃国)に在城していたところ、芋川親正が飯山城に攻め入る。これを受け、
織田信忠
が援軍として
団忠正
を遣わす。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」
天正10年 1582年 4月7日
長沼(信濃国)にて
森長可
と芋川親正勢が戦い、長可が勝利する。長可の勝利により、
稲葉貞通
の守る
飯山城
(信濃国)を攻めていた芋川勢が攻囲を解く。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」
天正10年 1582年 6月2日
本能寺
に宿泊中の
織田信長
を、早朝、
明智光秀
が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する
織田信忠
とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:
森成利
(戦死)、
福富秀勝
(戦死)、
野々村正成
(戦死)。
信忠勢:
村井貞勝
(戦死)、
菅屋長頼
(戦死)、
織田信房
(戦死)、
団忠正
(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条
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