人 物 史

川尻秀隆 かわじり びでたか
生 没 年大永7年(1527)-天正10年(1582)6/18
出 身尾張国岩崎村幼 名-
別 称与兵衛、鎮吉
法 名-
戒 名-
川尻重遠-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
川尻秀長、川尻鎮行、末守(浅野左近の妻、土肥親真の妻)
官 位肥前守
役 職-
城 郭岩村城(美濃国)、神箆城(美濃国)、府中城(甲斐国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ川尻秀隆の関連文化財
川尻秀隆 年表
大永7年 1527年 -月-日 1歳
川尻秀隆が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 2歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 6歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文11年 1542年 8月10日 16歳
小豆坂にて織田信秀と今川義元勢が戦う。
出典:『享禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)、『信長公記』(首巻)あづき坂合戦の事

天文20年 1551年 3月3日 25歳
織田信秀が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 29歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 32歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 11月2日 32歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 34歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

元亀1年 1570年 4月23日 44歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 7月1日 44歳
織田信長佐和山城(近江国)を攻めるため城の東に百々砦を築き丹羽長秀を、北の山に市橋長利を、南の山に水野信元を、西の彦根山に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」

元亀1年 1570年 9月25日 44歳
織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 45歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月21日 45歳
織田信長川尻秀隆丹羽長秀に命じて高宮右京亮一族を佐和山城(近江国)に呼び寄せ殺害する。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」

天正1年 1573年 7月28日 47歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 2月-日 48歳
織田信長が、武田勝頼に備えるべく小里城(美濃国)に池田恒興を、神箆城(美濃国)に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 7月14日 48歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正8年 1580年 閏3月-日 54歳
織田信長安土城(近江国)の鳥打の下江を埋め町を立てる。西北海の口に船入を所々に掘る。また、「江堀」を埋め、稲葉刑部、高山重友、日根野六郎左衛門、日根野弥次右衛門、日根野半左衛門、日根野勘右衛門、日根野五右衛門、水野監物、中西権兵衛、平松助十郎、余呉久兵衛、野々村正成川尻秀隆に屋敷地を与える。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正10年 1582年 2月1日 56歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 56歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 56歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可・団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月12日 56歳
織田信忠岐阜城(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月13日 56歳
織田信忠が高野(美濃国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 56歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可・団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月15日 56歳
森長可が市田(信濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月16日 56歳
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月28日 56歳
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日 56歳
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日 56歳
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可・団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 56歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月5日 56歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日 56歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 56歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 56歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 56歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 56歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 56歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 56歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 56歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 56歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 56歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 56歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 56歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月29日 56歳
織田信長が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を川尻秀隆に、駿河国を徳川家康に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を滝川一益に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を木曽義昌に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を穴山梅雪に、岩村(美濃国)を団忠正に、金山米田島(美濃国)は森成利に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 6月2日 56歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月18日 56歳
岩窪(甲斐国)にて、川尻秀隆が武田家旧臣の襲撃を受け、三井弥一郎に討ち取られる。
出典:-

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