人 物 史

木曽義昌 きそ よしまさ
生 没 年天文9年(1540)-文禄4年(1595)2/13
出 身-幼 名-
別 称宗太郎、義政
法 名-
戒 名東禅寺殿玉山徹公大居士
木曽義康-
兄 弟 姉 妹木曽義昌、上松義豊、岩
配 偶 者真龍院(武田晴信の娘)
岩、木曽千太郎、木曽義利、木曽義春、木曽義通、娘(毛利高政の妻)
官 位左馬頭、伊予守
役 職-
城 郭木曽福島城(信濃国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本「木曽義昌」の項
関 連 デ ー タ木曽義昌の関連文化財
木曽義昌 年表
天文9年 1540年 -月-日 1歳
木曽義昌が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 16歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 19歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 31歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 4月12日 34歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 34歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 2月1日 43歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 43歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 43歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 43歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月20日 43歳
武田勝頼上杉景勝に謀叛を起した木曽義昌の討伐に向かい苦戦している旨を伝えるとともに援軍を依頼する書状を発給する。
出典:(天正10年)2月20日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3660号、上杉家文書)

天正10年 1582年 3月20日 43歳
木曽義昌織田信長のもとに礼に訪れる。馬2疋を進上する。
出典:『信長公記』巻15(15)「木曽義政出仕の事」

天正10年 1582年 3月29日 43歳
織田信長が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を川尻秀隆に、駿河国を徳川家康に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を滝川一益に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を木曽義昌に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を穴山梅雪に、岩村(美濃国)を団忠正に、金山米田島(美濃国)は森成利に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正14年 1586年 6月9日 47歳
上杉景勝本圀寺に逗留する。木曽義昌が景勝のもとに挨拶に訪れる。また、愛宕山(下坊カ)、近衛信輔の使者が訪れる。村上頼勝、溝口秀勝が音信として訪れる。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

文禄1年 1592年 12月8日 53歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄4年 1595年 2月13日 56歳
木曽義昌が死去する。
出典:-

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