人 物 史

織田信忠 おだ のぶただ
生 没 年弘治1年(1555)-天正10年(1582)6/2
出 身尾張国幼 名奇妙丸
別 称勘九郎、菅九郎、信重
法 名-
戒 名大雲院三品羽林仙厳大禅定門
織田信長生駒吉乃
兄 弟 姉 妹織田信忠織田信雄織田信孝羽柴秀勝(於次)織田信房、織田信秀、織田信高、織田信吉、織田信貞、織田信好、織田長次、織田信正
配 偶 者鈴(塩川長満の娘)
織田秀信、織田秀則
官 位出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将
役 職-
城 郭岐阜城(美濃国)
参 考 文 献織田信忠に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる織田信忠の呼称
織田信忠の関連文化財
織田信忠 年表
弘治1年 1555年 -月-日 1歳
織田信忠が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 1歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 4歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 8月14日 15歳
岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ烏丸光康光宣父子、山科言継飛鳥井雅春が赴き暇乞いする。信長に鳥1、太刀(金作り)、馬代(金10両)、居唐金鉢を送る。信長の子・帰命(奇妙)に一本緞子1端(赤地)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 -月-日 15歳
弟・羽柴秀勝が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 16歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 9月12日 17歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月19日 18歳
織田信長小谷城(近江国)を攻めるべく岐阜城(美濃国)を出発し、赤坂(美濃国)に宿泊する。織田信忠が初陣として小谷城攻めに加わる。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月20日 18歳
織田信長信忠父子が横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月21日 18歳
織田信長が、ひばり山、虎御前山に軍勢を置く。信長の命により小谷城(近江国)に押し寄せ、佐久間信盛柴田勝家木下秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆が城下町を破る。勝家、稲葉良通氏家直昌安藤守就とともに先陣として布陣する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月29日 18歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 9月16日 18歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に戻るべく横山城(近江国)を発つ。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀4年 1573年 4月1日 19歳
織田勢の本陣である知恩院にいる織田信忠のもとへ吉田兼見が礼に訪れる。奏者は梶原平右衛門。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月12日 19歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 19歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 19歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 19歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 19歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 19歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 19歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 19歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 19歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 19歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 19歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 19歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 19歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 19歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 19歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 2月5日 20歳
織田信長信忠父子が武田勝頼勢に備えるため御嵩(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月6日 20歳
織田信長信忠父子が神箆(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 20歳
武田勝頼が明智城(美濃国)を落とす。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月24日 20歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 20歳
織田信長が、武田勝頼に備えるべく小里城(美濃国)に池田恒興を、神箆城(美濃国)に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 6月14日 20歳
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月17日 20歳
高天神城(遠江国)救援のため出勢した織田信長酒井忠次の居城・吉田城(三河国)に入る。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月19日 20歳
織田信長が今切渡より高天神城(遠江国)に向かおうとする。
小笠原氏助が武田勝頼に内通し、武田城を高天神城に引き入れたことから、同城は勝頼が落とす。
高天神城の落城を知った信長は吉田城(三河国)に引き上げる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 7月13日 20歳
織田信長信忠父子が願証寺(長島)に籠る一向一揆を攻めるため出陣し、津島(尾張国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月14日 20歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月15日 20歳
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正3年 1575年 3月-日 21歳
武田勝頼が足助(三河国)に出兵する。これを受け、織田信忠が尾張衆を率い出陣する。
出典:『信長公記』巻8(2)「公家領徳政にて仰付けられ候事」

天正3年 1575年 5月13日 21歳
遠江国に侵攻した武田勝頼に対するため、織田信長信忠とともに岐阜城(美濃国)を出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月18日 21歳
織田信長が極楽寺山(三河国)に陣取る。子・信忠は新御堂山(三河国)、徳川家康は高松山、滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀は有海原に陣取る。家康、一益の陣所前に馬防の柵を設ける。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 8月27日 21歳
夜、吉田兼見のもとを訪れた細川藤孝が兼見に、夏より東美濃の遠山氏を織田信忠が包囲し攻略したこと、また在番していた秋山信友が岐阜(美濃国)の近所にて磔にされたことを語る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月-日 21歳
織田信忠岩村城(美濃国)に攻め寄せた武田勢を破る。
出典:『信長公記』巻8(12)「菅九郎殿岩村御存分に被仰付の事」

天正3年 1575年 11月-日 21歳
秋田城介に任官される。
出典:『信長公記』巻8(13)「菅九郎殿御位の事」

天正3年 1575年 11月28日 21歳
織田信長が家督を子・信忠に譲る。
出典:『信長公記』巻8(14)「御家督御讓の事」

天正5年 1577年 2月9日 23歳
織田信忠が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため尾張衆・美濃衆を率い岐阜城(美濃国)を発ち柏原(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月10日 23歳
雑賀郡攻めのため上洛中の織田信忠蜂屋頼隆所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月11日 23歳
守山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月13日 23歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 23歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 23歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 23歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 23歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 23歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月28日 23歳
織田信長が淡輪(和泉国)に陣を移す。中野城の城兵が降伏する。中野城は織田信忠が請け取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月-日 23歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月21日 23歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)より天王寺に陣を移す。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正5年 1577年 8月17日 23歳
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月27日 23歳
松永久秀久通父子が信貴山城(大和国)にて織田信長に叛く。
織田信忠が松永久秀・久通父子を攻めるため岐阜城(美濃国)を出陣し、蜂屋頼隆の肥田城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月28日 23歳
松永久秀久通父子討伐のため大和国に向かう織田信忠安土城(近江国)の丹羽長秀邸に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 9月29日 23歳
織田信忠安土城(近江国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 10月1日 23歳
織田信忠安土城(近江国)を出発し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
松永久秀の与力・森秀光、海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を、明智光秀細川藤孝筒井順慶、山城国衆が攻め、落とす。この城攻めで細川忠興・興元兄弟が天守に一番乗りで攻め入り、城主の森秀光、海老名勝正等150余を討ち取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」、『綿考輯録」巻3

天正5年 1577年 10月2日 23歳
織田信忠が槙島(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月3日 23歳
織田信忠が奈良(大和国)を通り、信貴山城(大和国)に対陣する。
夜、信貴山毘沙門堂が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月4日 23歳
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を安土(近江国)より京都に移す。5日処刑されると噂される。矢部家定、福富秀勝が移送を担当する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月5日条

天正5年 1577年 10月5日 23歳
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を京都六条河原にて処刑する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月9日 23歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将]、松永久通。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月10日 23歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将](自害)、松永久通(自害)。
出典:『多聞院日記』同年月日・11日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月13日 23歳
織田信忠信貴山城より上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(10)「中将信忠御位の事」

天正5年 1577年 10月14日 23歳
公家衆が織田信忠のもとに礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月15日 23歳
織田信忠が禁裏への礼として飛鳥井雅敦のところを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月16日 23歳
織田信忠が従三位左近衛中将に任じられる。夜、信忠宿所にて地下を招き乱舞が催される。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月17日 23歳
織田信忠岐阜城(美濃国)に向け京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 12月12日 23歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月13日 23歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月19日 23歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月28日 23歳
織田信忠安土城(近江国)に赴き、丹羽長秀邸に宿泊する。織田信長が子・信忠に初花、松花、雁絵、竹子花入、くさり、藤なみの御釜、道三茶碗、内赤盆を賜う。
出典:『信長公記』巻10(14)「中将信忠へ御名物十一種被参事」

天正5年 1577年 12月29日 23歳
織田信長が子・信忠に周徳茶杓、大黒庵所持の瓢箪の炭入、古市胤澄所持の高麗箸を下賜する。
出典:『信長公記』巻10(14)「中将信忠へ御名物十一種被参事」

天正6年 1578年 1月1日 24歳
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 1月14日 24歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月15日 24歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月23日 24歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月24日 24歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 4月4日 24歳
織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月8日 24歳
織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 4月9日 24歳
織田信長が右大臣就任を辞退する。辞退状を広橋兼勝が請け取る。辞退状には四海平均を優先するためとし、官を子・信忠に譲与したいと記す。
信長の辞退申し出を受け、飛鳥井雅敦の所にて諸卿が協議する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 5月1日 24歳
播磨国に向けて織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が出陣し、郡山に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月2日 24歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月6日 24歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が大久保(播磨国)に到着する。先陣を神吉(播磨国)、志方(播磨国)、高砂(播磨国)に遣わし、加古川(播磨国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月27日 24歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 24歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 24歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 24歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 8月17日 24歳
織田信忠が播磨国より帰陣する。
出典:『信長公記』巻11(10)「小相撲の事」

天正6年 1578年 9月9日 24歳
織田信忠北畠信雄兄弟が安土城(近江国)にて相撲を見物する。
出典:『信長公記』巻11(10)「小相撲の事」

天正6年 1578年 10月21日 24歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 24歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 24歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 24歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月28日 24歳
織田信長信忠父子が昆陽野(摂津国)に陣所を移す。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月8日 24歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 24歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 3月2日 25歳
織田信忠北畠信雄神戸信孝が上洛する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 3月4日 25歳
織田信忠北畠信雄神戸信孝織田信包が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻12「安土城年賀の事」

天正7年 1579年 3月7日 25歳
織田信長が古池田(摂津国)に陣取る。織田信忠不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近等が荒木村重が籠る有岡城(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月26日 25歳
織田信忠三木城(播磨国)に砦を6ヶ所築くように命じる。その後、小寺政職の御着城(播磨国)を攻める。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月28日 25歳
織田信忠が有馬郡・能勢郡に攻め入り、作毛を薙ぐ。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月29日 25歳
織田信忠が、父・信長の陣する古池田(摂津国)に戻り、播磨国の情勢を報告する。その後、信忠は帰国を許され、東福寺に入る。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月30日 25歳
織田信忠岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 6月18日 25歳
織田信忠安土城(近江国)にいる父・信長のもとへ見舞いのため赴く。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月19日 25歳
織田信長が子・信忠に命じ、津田与八・前田玄以・赤座七郎右衛門をもって、所々の家に仕え信長に仕えない井戸才介を「無奉公」を理由に殺害する。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 8月20日 25歳
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 25歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 25歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 25歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 25歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 25歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 25歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 25歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 25歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 25歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月30日 25歳
宇喜多直家織田信長に赦免してもらうため、宇喜多基家を昆陽(摂津国)に在陣中の織田信忠のもとに遣わし、この日、基家が昆陽に到着する。基家は羽柴秀吉の執り成しにより、信忠に礼をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月20日 25歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 5月3日 26歳
織田信忠北畠信雄安土城(近江国)に赴き、自身の屋敷の普請を命じる。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月30日 26歳
織田信忠安土城(近江国)に赴く。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正8年 1580年 7月2日 26歳
本願寺顕如織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。
出典:『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 -月-日 26歳
子・秀信が生まれる。
出典:-

天正9年 1581年 1月3日 27歳
武田勝頼高天神城(遠江国)の後詰をするとの風説につき、織田信忠岐阜城(美濃国)を発し、軍勢を率い清須城(尾張国)に入る。
出典:『信長公記』巻14「武田四郎高天神城後巻き横須賀城番手の事」

天正9年 1581年 2月19日 27歳
織田信忠北畠信雄神戸信孝が上洛する。信忠、信雄は妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」

天正9年 1581年 2月28日 27歳
織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 7月25日 27歳
織田信忠安土城(近江国)に訪れる。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 10月9日 27歳
織田信長が伊賀国を見物するため、織田信忠津田信澄をともない飯道寺に登る。
出典:『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正9年 1581年 10月10日 27歳
伊賀国見物のため織田信長信忠父子が同国赴く。信長はアラキノ宮(伊賀国)に滞在する。信長・信忠父子の御座所を滝川一益北畠信雄丹羽長秀堀秀政が設える。
出典:『多聞院日記』同年月13日条、『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正10年 1582年 2月1日 28歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 28歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 28歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可・団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月12日 28歳
織田信忠岐阜城(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月13日 28歳
織田信忠が高野(美濃国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 28歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可・団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月15日 28歳
森長可が市田(信濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月16日 28歳
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月28日 28歳
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日 28歳
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日 28歳
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可・団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 28歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月5日 28歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日 28歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 28歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 28歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 28歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 28歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 3月11日 28歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 28歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 28歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 28歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 28歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 28歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 28歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 28歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月25日 28歳
小幡信貞が甲府(甲斐国)に在陣中の織田信忠のもとに礼に赴く。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月28日 28歳
織田信忠が甲府(甲斐国)より諏訪(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(18)「諸勢帰陣の事」

天正10年 1582年 4月3日 28歳
恵林寺が佐々木次郎を匿ったとして、織田信忠が織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉を奉行として恵林寺僧衆の成敗を命じる。奉行衆は寺中老若を山門に集め火をかけ、150余人を焼き殺す。
出典:『信長公記』同年月日条

天正10年 1582年 4月5日 28歳
森長可海津城(信濃国)に、稲葉貞通が城代として飯山城(信濃国)に在城していたところ、芋川親正が飯山城に攻め入る。これを受け、織田信忠が援軍として団忠正を遣わす。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 4月7日 28歳
長沼(信濃国)にて森長可と芋川親正勢が戦い、長可が勝利する。長可の勝利により、稲葉貞通の守る飯山城(信濃国)を攻めていた芋川勢が攻囲を解く。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 5月14日 28歳
織田信忠岐阜城(美濃国)より安土城(近江国)に向かう途中、番場(近江国)にて丹羽長秀より一献を受ける。信忠は番場にて休息の後、安土城まで向かい、同地に入る。
出典:『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」

天正10年 1582年 6月2日 28歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正11年 1583年 9月17日 
池田元助が崇福寺(美濃国)に織田信長信忠父子の弔いとして122貫500文を寄進する。
出典:天正11年9月17日付池田元助書状(「崇福寺文書」)

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