人 物 史

菅屋長頼 すがや ながより
生 没 年?-天正10年(1582)6/2
出 身-幼 名-
別 称御長、九右衛門
法 名-
戒 名-
--
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる菅屋長頼の呼称
菅屋長頼 年表
- -年 -月-日 
菅屋長頼が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 8月24日 
織田信長本能寺に宿泊する。吉田兼見が信長のもとへ礼に訪れ、塙直政が信長に取り次ぐ。兼見は直政に20疋、菅屋長頼に20疋を贈る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀2年 1571年 9月12日 
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 閏1月17日 
京都の立売篠屋に滞在中の菅屋長頼のもとに吉田兼見が見舞いとして訪れる。兼見は長頼に鳥を贈る。門外にて対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正2年 1574年 3月27日 
織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重佐久間信盛柴田勝家菅屋長頼丹羽長秀蜂屋頼隆塙直政松井友閑が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月28日 
織田信長東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。
夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正3年 1575年 8月20日 
織田信長がひなかたけ山に籠る一揆勢を攻めるべく、菅屋長頼前田利家等の馬廻衆を遣わし、1000余名を切り捨て、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
信長が北畠茶筅滝川一益を大滝・白山に遣わし攻める。
越前一向一揆を悉く成敗もしくは2/3平定すると奈良(大和国)にて噂される。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)、『多聞院日記』同年月日条

天正6年 1578年 6月16日 
羽柴秀吉が上洛し、織田信長のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、三木城(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として大津長昌、水野九蔵、大塚又一郎、長谷川竹、矢部家定、菅屋長頼万見重元、祝弥三郎を遣わす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 10月21日 
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 5月27日 
織田信長安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 5月28日 
安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論につき、日蓮衆側が5月27日付で宗論に敗れたことを認める起請文と連署状を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出したことを受け、その案文を村井貞勝に送り、正文の1通を知恩院に、もう1通を織田方で保管するとともに、洛中・洛外に触れ回るよう指示する。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正8年 1580年 閏3月16日 
織田信長安土城(近江国)の構の南の新道の北の田地を埋めキリシタンに屋敷地を与える。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正9年 1581年 1月1日 
安土城(近江国)の構の北、松原町の西の海端に馬場を築くべく普請を開始する。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻14「御馬場普請の事」

天正9年 1581年 3月28日 
織田信長七尾城(能登国)の城代として菅屋長頼を遣わす。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」

天正9年 1581年 6月27日 
織田信長七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、遊佐続光・遊佐弟・伊丹孫三郎を切腹させる。
出典:『信長公記』巻14(5)「能登国年寄共生害の事」

天正9年 1581年 8月-日 
織田信長七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、能登国・越中国の城を破却する。
出典:『信長公記』巻14(9)「能登・越中城々破却の事」

天正10年 1582年 3月5日 
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 4月21日 
織田信長岐阜城(美濃国)を発つ。呂久渡で稲葉一鉄が、今須(美濃国)にて不破直光が、柏原(近江国)にて菅屋長頼が、佐和山城(近江国)にて丹羽長秀が、山崎(美濃国)にて山崎片家が信長に一献を進上する。その後、信長は安土城(近江国)に帰城し、開陣する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 5月20日 
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 6月2日 
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.