城 郭 史

府中城(越前国) ふちゅうじょう
築 城 年天正3年 1575年
築 城 者前田利家
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称越府城、藤垣城
現 所 在 地〒915-0075
福井県越前市幸町1丁目2
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク前田利家前田利長丹羽長秀木村重茲、青木一矩、本多富正
府中城(越前国) 年表
天正1年 1573年 8月18日 
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正3年 1575年 8月15日 
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。
越前一向一揆を悉く成敗する。
府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 9月2日 
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正9年 1581年 8月17日 
織田信長前田利家に能登国 鹿島・羽咋・鳳至・珠洲の4郡を給付する。
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」

天正11年 1583年 4月22日 
柴田勝家北之庄城(越前国)に帰城する。
羽柴秀吉が府中城(越前国)に着陣する。
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)

天正13年 1585年 4月16日 
丹羽長秀が死去する。
出典:-

天正14年 1586年 6月3日 
上杉景勝が北之庄城(越前国)を出立し、麻生津にて長谷川秀一の振舞を受ける。府中(越前国)に到着し浄土宗寺院に宿泊する。府中の領主・木村重茲の出迎えは病のためなし。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月6日 
上杉景勝が府中(越後国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

慶長4年 1599年 10月1日 
徳川家康宇喜多秀家毛利輝元の連署でもって堀尾吉晴に府中(越前国)50000石が宛行われる。
出典:同年月日付徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元連署判物(「古文書集」)

慶長12年 1607年 閏4月8日 
松平秀康が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長18年 1613年 5月19日 
徳川家康本多富正に越前国の仕置きを命じ、朱印状も発給する。富正は越前国に帰国する。
出典:『駿府記』同年月日条

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