人 物 史

前田利長 まえだ としなが
生 没 年永禄5年(1562)1/12-慶長19年(1614)5/20
出 身尾張国荒子幼 名犬千代
別 称孫四郎、利勝
法 名-
戒 名瑞龍院殿聖山英賢大居士
前田利家まつ
兄 弟 姉 妹幸、前田利長、蕭、加賀殿、豪、与免、前田利政、菊、千世、福、前田知好、前田利常、前田利孝、保智、前田利貞、女
配 偶 者永(織田信長の娘)
満、前田利常[養子]
官 位肥前守、侍従、左近衛権少将、左近衛権中将、参議、中納言、権大納言[贈位]
役 職豊臣政権 大老
城 郭府中城(越前国)、松任城(加賀国)、金沢城(加賀国)、富山城(越中国)
参 考 文 献前田利長に関する参考文献
関 連 デ ー タ前田利長の関連文化財
史料にみえる前田利長の呼称
前田利長の家臣
前田利長 年表
永禄5年 1562年 1月12日 1歳
前田利長が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 9歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 12歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 6月2日 21歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正11年 1583年 4月24日 22歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正12年 1584年 4月9日 23歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 7月11日 24歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 24歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正15年 1587年 1月25日 26歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 26歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 26歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 26歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 26歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 26歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 26歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 26歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 26歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 26歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 26歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 26歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 26歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 26歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 26歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 26歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 26歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 26歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 26歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 26歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 26歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 26歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 26歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正18年 1590年 2月16日 29歳
北条氏政攻めのため、前田利家利長父子が金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「上州松枝之城主成降人事」

天正18年 1590年 4月26日 29歳
上杉景勝前田利長が松井田町に軍勢の濫妨・狼藉、放火、陣取りを禁止する禁制を発給する。
出典:天正18年4月26日付上杉景勝・前田利長連署禁制(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3357号「陳外郎文書」)

天正18年 1590年 12月28日 29歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 31歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 11月25日 32歳
弟・利常が生まれる。
出典:-

文禄4年 1595年 7月8日 34歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 34歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 34歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 34歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 35歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 7月24日 36歳
ルソン国より使者が到来し、豊臣秀吉に黒象1双、銀盤・銀椀等16種を贈る。伏見城(山城国)内にてルソン国の使者をもてなすため能3番を催す。徳川家康上杉景勝前田利長が相伴する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 4月4日 37歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 8月18日 37歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 1月10日 38歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 閏3月3日 38歳
父・利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長4年 1599年 閏3月7日 38歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月10日 38歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月13日 38歳
午刻(11-13時)、徳川家康伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 9月7日 38歳
徳川家康大坂城(摂津国)の西ノ丸に入る。
出典:『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 月日 38歳
秋、伏見城(山城国)に在勤していた佐竹義宣上杉景勝毛利輝元前田利長が領国に帰国する。
出典:『当代記』巻3

慶長5年 1600年 7月26日 39歳
申下刻(16時)、前田利長が小松(加賀国)に向けて出陣する。
出典:『小松軍記』「小松籠城」

慶長5年 1600年 8月2日 39歳
前田利長が三陀山の陣を払い、御幸塚に本陣を据える。
出典:『小松軍記』「利長攻大聖寺並長重後巻事」

慶長5年 1600年 8月3日 39歳
徳川家康に味方した前田利長が、三成方の山口宗永が籠る大聖寺城(加賀国)を攻め、城を落とす。
出典:『小松軍記』「利長攻大聖寺並長重後巻事」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 39歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 9月-日 40歳
前田利光と徳川秀忠の息女の婚儀が行われる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月7日 41歳
巳刻(9-11時)、前田玄以が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月8日条

慶長8年 1603年 2月12日 42歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 8月-日 42歳
薩摩国にて匿われていた宇喜多秀家が、大島(伊豆国)に配流となる。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長10年 1605年 4月16日 44歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長17年 1612年 5月8日 51歳
前田利長の使者が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに到着し、銀子1000枚、白絹100疋、白布100疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月3日 52歳
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月19日 53歳
加藤明成駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。3年間、腫物のため伊予国に3年間居住し、家康の礼が遅れる。明成は銀100・綿200把・袷衣10領を家康に献上する。本多正純が家康に披露する。この間、加藤嘉明は江戸(武蔵国)に在府する。
板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。五畿内で大雨があり洪水が起こり、賀茂川の堤防が切れ、町家に流れる。また、瀬田橋の板が傾き落ちる。板倉重昌がその旨を家康に伝える。瀬田橋の修復を家康は命じる。
前田利長が死去した旨が家康に伝えられる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月20日 53歳
前田利長が死去する。
出典:-

慶長19年 1614年 7月13日 
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

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