人 物 史

堀尾吉晴 ほりお よしはる
生 没 年天文13年(1544)-慶長16年(1611)6/17
出 身尾張国丹羽郡御供所村幼 名仁王丸、小太郎
別 称茂助、可晴、吉定、吉直
法 名-
戒 名-
堀尾泰晴-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
堀尾金助、堀尾忠氏、娘(石川忠総の妻)、娘(堀尾河内守の妻)
官 位帯刀先生
役 職-
城 郭浜松城(遠江国)、松江城(出雲国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ堀尾吉晴の関連文化財
堀尾吉晴 年表
天文13年 1544年 -月-日 1歳
堀尾吉晴が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 12歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 15歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 27歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 30歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正7年 1579年 9月10日 36歳
大村の合戦で、羽柴秀吉別所長治が戦う。この戦いで吉晴は首級をあげる。
出典:『天正記』「播磨別所記」、『譜牒余禄』60「堀尾帯刀

天正9年 1581年 10月25日 38歳
鳥取城(因幡国)を守る吉川経家が、城兵の助命と引き換えに切腹する。検使は堀尾吉晴
羽柴秀吉は経家の首を安土城(近江国)に送る。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)、『豊臣記』

天正9年 1581年 11月21日 38歳
夕方、羽柴秀吉姫路城(播磨国)に入り開陣する。
出典:天正9年11月22日付桑山修理亮宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-357号)

天正10年 1582年 9月9日 39歳
羽柴秀吉堀尾吉晴に丹波国氷上郡内の6284石を給付する。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 11月12日 39歳
堀尾吉晴が丹波国氷上郡柏原別宮八幡宮に石原荘内の田地3反を寄進する。
出典:天正10年11/12付堀尾吉晴寄進状(「柏原八幡宮文書」)

天正12年 1584年 3月13日 41歳
羽柴秀吉の命により加藤光泰、木村隼人、堀尾吉晴が甲賀(近江国)に陣取る。
出典:(天正12年)3月13日付羽柴秀吉判物(『豊臣秀吉文書集成』2-968号)

天正12年 1584年 4月9日 41歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 7月11日 42歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 42歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 閏8月21日 42歳
羽柴秀吉堀尾吉晴に近江国内で4万石を給付する。所領は浅井郡西草野3940石、浅井郡山田荘1504石、浅井郡田根荘4500石、坂田郡国友1740石、浅井郡宮部郷・湯次郷4740石、伊香郡ほら戸176石、浅井郡尊勝寺郷1000石、浅井郡中野981石、坂田郡平方472石、坂田郡山科郷3103石、浅井郡上坂5235石、坂田郡今川200石、浅井郡野村主計1095石、坂田郡平野分1104石、坂田郡長澤983石6斗、坂田郡四木995石7斗、坂田郡馬場878石6斗、坂田郡柏原830石5斗、坂田郡醒井377石9斗、犬上郡久徳分3055石、犬上郡松原650石(堀直政分)、坂田郡北はしり159石8斗、坂田郡多和田175石4斗、坂田郡いむら・米原551石9斗、坂田郡忍海454石5斗、坂田郡のとせ・ひくち493石、坂田郡みのうら・ひくち・たるみ・うしうち・あさくら・にう・ひの木畑・夫那・名荷599石4斗。
出典:天正13年閏8/21付堀尾吉晴知行目録(『大』11-19 p327)

天正18年 1590年 6月12日 47歳
子・金助が死去する。
出典:『系図纂要』「堀尾」

天正18年 1590年 12月28日 47歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 3月13日 48歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 48歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 48歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 48歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 48歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 48歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 49歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 閏9月25日 50歳
朝、豊臣秀吉織田有楽斎邸へ赴く。
晩、秀吉は堀尾吉晴邸に赴く。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 7月3日 52歳
豊臣秀次に謀叛の疑いがあるとして、豊臣秀吉前田玄以富田一白増田長盛石田三成を秀次のもとに遣わす。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月8日 52歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 52歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 52歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 52歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 53歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 4月22日 54歳
藤堂高虎堀尾吉晴西笑承兌増田長盛邸に赴く。長盛邸にて芝霊石文字、仙鑑達磨讃を見る。飯と茶がある。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月23日 54歳
堀尾吉晴が自身の木屋にて催した茶会に豊臣秀吉を茶会に招く。西笑承兌に粥を振る舞う、
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 55歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 -月-日 56歳
孫・忠晴が生まれる。
出典:-

慶長4年 1599年 10月1日 56歳
徳川家康宇喜多秀家毛利輝元の連署でもって堀尾吉晴に府中(越前国)50000石が宛行われる。
出典:同年月日付徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元連署判物(「古文書集」)

慶長4年 1599年 11月9日 56歳
父・泰晴が死去する。
出典:『系図編要』「堀尾」

慶長5年 1600年 6月16日 57歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 57歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月-日 57歳
小山(下野国)にて、堀尾忠氏が徳川家康に異心が無いこと示すため、家康近習のいずれかと忠氏の妹の婚姻を結ぶことを家康に請う。家康は忠氏の要請を受け、大久保忠総と忠氏の妹の婚姻を約す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

慶長8年 1603年 11月14日 60歳
中村一忠が家老の横田村詮を殺害する。
出典:『当代記』巻3同年12月上旬条

慶長9年 1604年 8月4日 61歳
堀尾忠氏が死去する。
出典:『系図纂要』「堀尾」

慶長9年 1604年 8月4日 61歳
子・忠氏が死去する。
出典:『系図纂要』「堀尾」

慶長16年 1611年 6月17日 68歳
堀尾吉晴が死去する。
出典:『当代記』慶長16年6/17条

慶長16年 1611年 9月22日 
堀尾吉晴が遺物として金100枚、真壺を徳川家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

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