人 物 史

前田利家 まえだ としいえ
生 没 年天文7年(1538)12/25-慶長4年(1599)閏3/3
出 身尾張国荒子幼 名犬千代
別 称孫四郎、又左衛門、又四郎、孫四郎
法 名-
戒 名高徳院殿桃雲浄見大居士
前田利昌長齢院
兄 弟 姉 妹前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継
配 偶 者まつ(篠原一計の娘)、寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院
幸、前田利長、蕭、加賀殿、豪、与免、前田利政、菊、千世、福、前田知好、前田利常、前田利孝、保智、前田利貞、女
官 位左近衛権少将、筑前守、右近衛権中将、参議、権中納言、権大納言
役 職豊臣政権 大老
城 郭荒子城(尾張国)、府中城(越前国)、七尾城(能登国)、金沢城(加賀国)
参 考 文 献前田利家に関する参考文献
関 連 デ ー タ前田利家の関連文化財
前田利家の家臣
前田利家 年表
天文7年 1538年 12月25日 1歳
前田利家が生まれる。
出典:-

天文20年 1551年 3月3日 14歳
織田信秀が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 18歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 19歳
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

弘治4年 1558年 2月28日 21歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 11月2日 21歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄4年 1561年 5月14日 24歳
森部の合戦にて織田信長斎藤龍興が戦う。この戦いで、前田利家が足立六兵衛を討ち取り、赦免される。
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」

永禄4年 1561年 10月-日 24歳
織田信長の命により前田利家が兄・利久に替り前田家の家督を相続する。
出典:『系図纂要』「前田家」

永禄5年 1562年 1月12日 25歳
子・利長が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 7月25日 31歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 31歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 31歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 31歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄12年 1569年 8月20日 32歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 32歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 32歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 32歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄13年 1570年 4月20日 33歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 33歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 33歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 33歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 33歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 33歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 33歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 33歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 33歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 33歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 33歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 33歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 8月25日 33歳
福島(摂津国)に陣取る三好長逸三好康長岩成友通を討つため、織田信長が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月26日 33歳
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 33歳
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 33歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 33歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 33歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 33歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 34歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 36歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 7月14日 37歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正3年 1575年 5月20日 38歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 38歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 8月20日 38歳
織田信長がひなかたけ山に籠る一揆勢を攻めるべく、菅屋長頼前田利家等の馬廻衆を遣わし、1000余名を切り捨て、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
信長が北畠茶筅滝川一益を大滝・白山に遣わし攻める。
越前一向一揆を悉く成敗もしくは2/3平定すると奈良(大和国)にて噂される。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)、『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 9月2日 38歳
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正5年 1577年 8月8日 40歳
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 10月3日 40歳
七尾城(能登国)救援のため北陸にいたが帰陣する。
出典:『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正6年 1578年 3月13日 41歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 10月21日 41歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 41歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 41歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月18日 41歳
織田信長の命により、津田信澄茨木城(摂津国)への抑えとして置き、惣持寺(摂津国)寺中の要害普請に越前衆の不破光治前田利家佐々成政金森長近、日根野備中、日根野弥次右衛門、原長頼をあたらせる。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月24日 41歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 41歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 41歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 3月7日 42歳
織田信長が古池田(摂津国)に陣取る。織田信忠不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近等が荒木村重が籠る有岡城(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月8日 42歳
織田信長が播磨国に不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近堀秀政津田信澄を遣わす。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月29日 42歳
荒木村重有岡城(摂津国)攻めのため同城周辺に在陣していた不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近織田信長より帰城を許される。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 8月9日 42歳
柴田勝家が加賀国に侵攻し、阿多賀・本折・小松町口を焼き払い、苅田をする。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 12月16日 42歳
辰刻(7-9時)、織田信長荒木村重の妻子・兄弟を上京一条辻から室町通を通って六条河原まで引き回し、六条河原にて処刑する。奉行は不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 閏3月9日 43歳
柴田勝家が加賀国に侵攻する。勝家は添川・手取川を渡り宮の腰に陣取る。野々市に籠る一向一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正9年 1581年 2月28日 44歳
織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 3月15日 44歳
小井手城(越中国)を上杉景勝が攻めていることを聞いた織田信長が、不破光治前田利家原長頼金森長近柴田勝家にすぐに越前国へ帰国し救援するよう命じる。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月24日 44歳
佐々成政が神通川・六道川を渡り、中田(越中国)に陣取る。小井手城(越中国)を攻めていた上杉景勝河田長親同城より撤退する。
長親が松倉城(越中国)にて死去する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 8月17日 44歳
織田信長前田利家に能登国 鹿島・羽咋・鳳至・珠洲の4郡を給付する。
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」

天正10年 1582年 3月11日 45歳
小島職鎮・唐人親広が指揮する一揆勢が、富山城(越中国)城主で主君の神保長住を攻め、城を乗っ取る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 6月2日 45歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 45歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正11年 1583年 4月21日 46歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正11年 1583年 4月23日 46歳
羽柴秀吉柴田勝家の籠る北之庄城(越前国)を攻める。
この日、勝家は自害したと奈良(大和国)にて伝えられる。(『多』)
出典:(天正11年)4月24日付豊臣秀吉書状(「赤木文明堂文書」『豊臣秀吉文書集』1巻-651号)、『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 46歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 9月17日 46歳
貝塚動座の礼として本願寺顕如羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑前田利家千宗易津田宗及荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 4月9日 47歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 9月9日 47歳
佐々成政が末森城(能登国)を攻める。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 9月11日 47歳
末森城(能登国)を攻撃中の佐々成政前田利家が急襲する。利家が勝利する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月2日 48歳
本願寺顕如より音信の返礼として金沢在京人・念西の門徒を遣わす。この日、門徒は貝塚本願寺に到着し、顕如に太刀・馬・綿30把・蝋燭50挺を贈る。
出典:『信長公記』巻15 越中富山の城、神保越中居城謀叛の事

天正13年 1585年 7月11日 48歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 48歳
巳刻(9-11時)、佐々成政の対治として、羽柴秀吉が軍勢8000ばかりを率い京を発す。秀吉は坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月9日 48歳
羽柴秀吉が、朝早くに坂本(近江国)を出発し、高島(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 48歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正13年 1585年 閏8月1月1日日 48歳
教如佐々成政の対治のため北陸にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いの使者として赴き大聖寺(加賀国)にて秀吉に謁見する。越前国、加賀国の門徒衆に会うよう秀吉より指示される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月9日 48歳
羽柴秀吉が加賀国より越前国に入る。
出典:『兼見卿記』同年月12日条

天正14年 1586年 5月28日 49歳
上杉景勝が倶利伽羅峠を越える。前田安勝が景勝を迎える。石田三成前田利家も森本近辺まで迎えにくる。利家の居城・小山城(金沢城)に到着する。利家は景勝のため酒宴を催す。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月29日 49歳
上杉景勝が小山(加賀国)を出立する。松任(加賀国)に茶屋が設けられており一献をうける。小松(加賀国)に到着し、村上義明の接待をうける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 9月9日 49歳
滝川一益が死去する。
出典:-

天正14年 1586年 10月27日 49歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 50歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 50歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 50歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 50歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 50歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 50歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 50歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 50歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 50歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 50歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 50歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 50歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 50歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 50歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 50歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 50歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 50歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 50歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 50歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 50歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 50歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 50歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 50歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 4月14日 51歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 51歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「植をける 砌の松に 君がへん 千代の行衛ぞ かねてしらるる」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 7月24日 51歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正17年 1589年 6月16日 52歳
伊達政宗が、蘆名義広と戦い勝利し、会津(陸奥国)を領有したことを前田利家富田一白施薬院全宗に書状をもって伝える。使者は坂東屋道有。
出典:(天正17年)7月13日付富田一白書状(『伊達家文書』1-425号)、(天正17年)7月22日付坂東屋道有書状(『伊達家文書』1-429号)

天正17年 1589年 7月21日 52歳
前田利家伊達政宗に、蘆名義広を破り、会津(陸奥国)を領有したことに理解を示しつつも、会津は蘆名義広の領有を認める朱印状を発給済であり、豊臣秀吉も、政宗が自身の都合で蘆名領に侵攻したことについて不審に思っているので、秀吉に利家からも執り成しをするので、使者を京都に遣わし、施薬院全宗富田一白と相談の上、事情を説明するように書状をもって促す。
出典:(天正17年)7月21日付前田利家書状(『伊達家文書』1-426号)

天正17年 1589年 10月10日 52歳
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正17年 1589年 12月5日 52歳
前田利家浅野長政伊達政宗に、翌年春に北条氏成敗のため豊臣秀吉が出陣すること、早く上洛することを伝える。
出典:(天正17年)12月5日付前田利家・浅野長政連署状(『伊達家文書』1-457号)

天正18年 1590年 1月21日 53歳
豊臣秀吉浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家施薬院全宗が相伴する。
出典:『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)

天正18年 1590年 2月16日 53歳
北条氏政攻めのため、前田利家利長父子が金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「上州松枝之城主成降人事」

天正18年 1590年 3月1日 53歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月-日 53歳
南部信直利直父子が豊臣秀吉小田原城攻め(相模国)に参陣する。利直は前田利家を加冠親として元服し、利家の諱を賜り「利直」と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

天正18年 1590年 6月17日 53歳
前田利家上杉景勝の軍勢が小田原城(相模国)攻めの豊臣勢陣中に到着する。豊臣秀吉は鉢形城(武蔵国)の降伏を受け入れ、城を攻撃しなかったことに立腹する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 53歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 53歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 12月28日 53歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 3月13日 54歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 54歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 54歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 54歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 54歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 54歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 55歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 3月10日 56歳
豊臣秀吉が牧使城攻めの軍勢を編成する。前田利家(軍勢7000)、蒲生氏郷(軍勢1500)、最上義光(軍勢300)、長谷川秀一(軍勢3000)、細川忠興(軍勢2000)、木村重茲(軍勢2000)、大谷吉継上杉景勝(軍勢5000)、蜂須賀家政(軍勢5000)、福島正則(軍勢3000)、戸田勝隆(軍勢2500)、中川秀成(軍勢2000)、小野木重次(軍勢600)、牧村政吉(軍勢400)、岡本重政(軍勢300)、糟屋武則(軍勢120)、高田治忠(軍勢180)、太田一吉(軍勢80)、片桐貞隆(軍勢120)、古田重勝(軍勢120)、新庄直定(軍勢180)、秋田実季(軍勢134)、本堂忠親(軍勢25)、大崎左衛門尉(軍勢10)、由利五人衆(軍勢88)の総勢37100。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄2年 1593年 10月1日 56歳
豊臣秀吉が、秀吉の子・お拾に甥・豊臣秀次の娘を嫁がせるよう命じる。この婚約につき、前田利家と松の夫妻に仲人を命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月5日 56歳
豊臣秀吉前田利家施薬院全宗所に赴く。その後、参内する。禁裏で行われた能で「源氏供養」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日・7日条

文禄2年 1593年 10月6日 56歳
5日に禁裏で行われた能で「源氏供養」を舞ったことにつき鳥目5貫が禁裏より下付される。
出典:『駒井日記』同年月8日条

文禄2年 1593年 11月25日 56歳
子・利常が生まれる。
出典:-

文禄3年 1594年 4月6日 57歳
豊臣秀吉北野社に参詣する。
その後、秀吉は前田利家邸を訪れ宿泊する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月8日 57歳
豊臣秀吉施薬院全宗所から正式に前田利家邸を訪問する。能あり。全宗所に帰る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月10日 57歳
施薬院全宗所から豊臣秀吉前田玄以を召し連れ前田利家邸を訪問する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月11日 57歳
豊臣秀吉前田利家邸から伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 4月15日 57歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)において能を催す。織田信雄が「かんたん」「海士」を、徳川家康が「松風」を、前田利家が「杜若」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 9月26日 57歳
豊臣秀吉大坂城(摂津国)の前田利家邸を訪れ饗応を受ける。
出典:『文禄三年前田亭御成記』(『続群書類従』第23輯下)

文禄4年 1595年 2月7日 58歳
蒲生氏郷が死去する。
出典:『蒲生氏郷記』、『佐久間軍記』

文禄4年 1595年 7月8日 58歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 58歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 58歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 58歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 59歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 3月25日 60歳
伏見城(山城国)の御座敷にて徳川家康前田利家金森長近富田一白西笑承兌、御伽衆12、13人が参加する茶湯が行われる。家康が承兌に海雲1桶を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月2日 60歳
豊臣秀吉前田利家邸を訪問する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月20日 60歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。徳川家康前田利家に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月27日 60歳
豊臣秀吉が参内する。銀50枚、白鳥3、杉原10束、太刀を朝廷に進上する。徳川家康前田利家が供奉する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 8月1日 60歳
西笑承兌伏見城(山城国)に出仕する。承兌のもとに徳川家康前田利家織田常真が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月9日 60歳
豊臣秀吉が、西笑承兌作成したバタン国への返書を確認のうえ、承兌に金印を捺させ長束正家に渡す。
朝鮮より注進がある。唐島に駐屯し豊臣軍の軍船を止めていた朝鮮軍に対し、小西行長藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明島津忠恒島津義弘が唐島に夜襲をしかけ、数千人を討ち取るとともに船を焼く。この注進を受け、秀吉は朝鮮に出陣するとの意向を示す。徳川家康上杉景勝前田利家を呼び出す。利家は病のため召しに応じることができず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月13日 60歳
前田利家西笑承兌に索麺1籠、杉原3束を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月21日 60歳
伏見城(山城国)にて西笑承兌に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月6日 60歳
京の御殿にて西笑承兌と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月21日 60歳
西笑承兌が22日の豊臣秀吉前田利家邸訪問の前に利家のもとを見舞いとして訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月22日 60歳
西笑承兌前田利家邸を訪れる。
豊臣秀吉が利家邸を訪れる。午刻(11-13時)、子・秀頼も利家邸を訪れる。利家は秀頼に銀子200枚、馬、皆具、服を献じる。そのほか綿子、金子、小袖を数多進上する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月28日 60歳
伏見城(山城国)城中にて西笑承兌に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月13日 60歳
豊臣秀吉徳川家康に文梨小壺を、前田利家に富士茄子壺を、織田有楽斎に寺西肩衝を、宗凡に円座肩衝を贈る。また、家康、利家に台子茶の湯を認可する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月17日 60歳
伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月21日 60歳
伏見城(山城国)内にて前田利家西笑承兌とともに閑談する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月29日 60歳
前田利家が病により御番を勤められず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月3日 60歳
伏見城(山城国)にて前田利家西笑承兌織田有楽斎と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月15日 60歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。前田利家に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月23日 60歳
前田利家西笑承兌に小袖2を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月23日 60歳
前田利家西笑承兌に小袖2を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 4月4日 61歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 8月18日 61歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 1月10日 62歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 2月29日 62歳
前田利家が大坂(摂津国)より伏見(山城国)に赴き、徳川家康と対面する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 3月11日 62歳
徳川家康が伏見(山城国)より大坂(摂津国)で病に伏せる前田利家を見舞う。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月3日 62歳
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

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