人 物 史

松平秀康/結城秀康 まつだいら ひでやす/ゆうき ひでやす
生 没 年天正2年(1574)2/8-慶長12年(1607)閏4/8
出 身遠江国敷知郡宇布見村幼 名於義伊、於義丸、義伊丸、義伊松
別 称羽柴秀康、結城秀康、秀朝
法 名-
戒 名孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士、浄光院殿森岩道誉運正大居士
徳川家康豊臣秀吉[養父]、結城晴朝[養父]長勝院
兄 弟 姉 妹松平信康、亀、松平秀康徳川秀忠松平忠吉、振、武田信吉、松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房
配 偶 者鶴(結城晴朝の養女、江戸重通の娘)、中川出雲守の娘、三谷長基の娘、津田信正の娘
松平忠直、松平忠昌、喜佐、松平直政、松平吉松、松平直基、松平直良、呑栄
官 位侍従、三河守、左近衛権少将、権中納言
役 職-
城 郭結城城(下総国)、北之庄城(越前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ松平秀康の関連文化財
松平秀康の家臣
松平秀康/結城秀康 年表
天正2年 1574年 2月8日 1歳
松平秀康が遠江国敷知郡宇布見村にて生まれる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 2歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 2歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正7年 1579年 4月7日 6歳
申刻(15-17時)、弟・秀忠が生まれる。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月15日 6歳
兄・松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 3月11日 9歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 9歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月3日 9歳
徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項

天正12年 1584年 4月9日 11歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 12月22日 11歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 12月26日 11歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため大坂城(摂津国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正13年 1585年 1月11日 12歳
本願寺顕如徳川於義伊に小袖2・道服1を、石川数正に小袖2、杉田新兵衛に小袖1を音信として遣わす。使者は寺内相模
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 1月22日 12歳
徳川於義伊が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に小姓と石川数正を遣わす。顕如は両人と対面する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 4月18日 12歳
徳川於義伊が陣中見舞いとして羽柴秀吉のいる雑賀(紀伊国)にやってくる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月2日 12歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、青木信安山高信直[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、柳沢信俊[大久保忠世勢]、米倉忠継[大久保忠世勢]、米倉信継[大久保忠世勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同169「米倉信継」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同250「保科正直」の項

天正14年 1586年 10月27日 13歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 3月1日 17歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月2日 17歳
結城秀康伊達政宗に風呂を馳走する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月4日 17歳
徳川家康結城秀康伊達政宗豊臣秀吉のもとに赴く。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 17歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 17歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正20年 1592年 1月19日 19歳
結城秀康北野社にて立願の連歌200韻を興行する。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 2月14日 19歳
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 3月18日 19歳
豊臣秀吉の朝鮮国攻めにつき、結城秀康が京都より出陣する。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正20年 1592年 4月8日 19歳
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

文禄1年 1592年 12月8日 19歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄4年 1595年 6月10日 22歳
子・忠直が生まれる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 23歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 25歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 1月10日 26歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 8月24日 27歳
徳川秀忠石田三成攻めに加わるべく宇都宮(下野国)を発す。榊原康政、酒井忠重、森忠政大久保忠隣、仙石越前守忠俊、上野筑後守、佐野修理大夫、本多正信真田信之石川康長、日根野吉重、牧野貞成等が従軍する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 9月1日 27歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月7日 27歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月15日 27歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 11月28日 27歳
弟・義直大坂城(摂津国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長6年 1601年 -月-日 28歳
松平秀康の執り成しにより辻久吉が赦免され、徳川秀忠に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第398「辻久吉」の項

慶長7年 1602年 3月7日 29歳
弟・頼宣が山城国伏見城にて生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 2月12日 30歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月25日 30歳
巳下刻(10時)、徳川家康が参内する。結城秀康細川忠興池田輝政京極高次福島正則、松平忠良、松平飛騨守、松平清直、松平家清本多正純本多康紀本多忠勝石川康通井伊直継本多康俊板倉勝重、本多藤四郎、渡辺守綱、山上弥四郎、島田直時、鵜殿善六、横田弥五左衛門、高木九助、近藤秀用竹中重義森可澄、三好助三郎、三好可正、佐々木勝九郎、近藤政成、松平一生、戸田采女、内藤正成秋元泰朝松平正綱近藤季用大久保忠総、酒井主水、永井直勝三浦重成米津正勝、中山信吉、柴田左近、成瀬正成安藤直次、榊原甚五兵衛、横田尹松、日下部宗好、長谷川久五郎、阿部忠吉、豊島信満、林忠政、花井勝右衛門、伊奈忠政、加藤吉左衛門、高木善三郎、朝比奈弥太郎、石川康次、鳥井九郎左衛門、里見忠重、都築与右衛門が供奉する。将軍宣下の礼として禁裏に銀子1000枚を進上する。午下刻(12時)退出する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 7月28日 30歳
徳川秀忠の娘・千が豊臣秀頼のもとに入嫁する。千は伏見城(山城国)より船にて大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 8月10日 30歳
弟・頼房が生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 9月11日 30歳
弟・武田信吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長8年 1603年 12月5日 30歳
徳川家康が、子・徳川五郎太郎に甲斐国を、子・徳川長福丸に水戸(常陸国)200000石を、子・松平忠輝に川中島(信濃国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 4月20日 31歳
松平秀康が弟・徳川秀忠の見舞いのため、北之庄城(越前国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 2月24日 32歳
上洛する結城秀康を迎えるため、大津(近江国)に下向する。
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長10年 1605年 4月16日 32歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長11年 1606年 -月-日 33歳
甥・徳川忠長江戸城(武蔵国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長12年 1607年 3月5日 34歳
弟・松平忠吉が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長12年 1607年 閏4月8日 34歳
松平秀康が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

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