人 物 史

朝倉義景 あさくら よしかげ
生 没 年天文2年(1533)-天正1年(1573)8/20
出 身越前国幼 名長夜叉
別 称孫次郎、延景
法 名-
戒 名-
朝倉孝景高徳院
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者細川晴元の娘、近衛稙家の娘、鞍谷嗣友の娘、斎藤兵部の娘
阿君丸、愛王丸、娘(本願寺教如の妻)
官 位左衛門督
役 職越前国守護
城 郭一乗谷城(越前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ朝倉義景の関連文化財
朝倉義景の家臣
朝倉義景 年表
天文2年 1533年 -月-日 1歳
朝倉義景が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 23歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月20日 24歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治2年 1556年 6月5日 24歳
足利義輝六角義賢を介して本願寺顕如に一向一揆と対立している朝倉義景と和睦するよう命じる使者を遣わす。
出典:『私心記』同年月日条

弘治4年 1558年 2月28日 26歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄7年 1564年 9月1日 32歳
朝倉景鏡・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月12日 32歳
朝倉義景が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条)

永禄7年 1564年 9月17日 32歳
本折(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他

永禄7年 1564年 9月20日 32歳
鵜谷口(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」)

永禄8年 1565年 5月19日 33歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月5日 33歳
織田信長一条院覚慶より上洛を促す御内書を受けたことに対し、細川藤孝に、上意次第、お供(出兵)することを伝えるとともに朝倉義景武田義統への軍勢催促を促す。
出典:(永禄8年)12月5日付織田信長書状(「高橋義彦氏所蔵文書」10、『織田信長文書の研究』上巻60号)

永禄10年 1567年 2月25日 35歳
足利義昭朝倉義景の居所・一乗谷(越前国)に入る。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄10年 1567年 11月18日 35歳
禁裏供御御料所のことにつき若狭国は朝倉義景よりの進納を期待していることを義景に伝えるよう勧修寺晴秀が福寿院に命じる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日 36歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月22日 36歳
足利義昭浅井長政の館より美濃国に移る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

永禄11年 1568年 7月25日 36歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 36歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄13年 1570年 1月22日 38歳
朝倉義景が禁裏へ年頭の礼として青銅1000疋を進納する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月20日 38歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 38歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 38歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 38歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 38歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 38歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 38歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 38歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 38歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 38歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 38歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 38歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 38歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 9月16日 38歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月17日 38歳
朝倉勢が上洛すると京にてしきりに噂される。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月19日 38歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月21日 38歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が逢坂を越え醍醐・山科(山城国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月22日 38歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が京都に攻め入らんとしていることについて中島(摂津国)に在陣中の織田信長のもとに注進が到る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 38歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月24日 38歳
織田信長本能寺より出陣し、逢坂を越え下坂本(近江国)に布陣する朝倉景健勢に攻めかかる。浅井長政・朝倉景健の軍勢は延暦寺に陣取る。これをうけ、信長は延暦寺に稲葉良通を遣わし、延暦寺に朝倉勢の引き渡しを求め、引き渡しに応じたならば延暦寺領を還付するよう伝えるが延暦寺は信長の要求を拒否する。信長は下坂本(近江国)に布陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月25日 38歳
織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月28日 38歳
朝倉景恒が死去する。
出典:-

元亀1年 1570年 11月25日 38歳
堅田(近江国)の猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初又次郎が織田信長に味方する。堅田に布陣する朝倉勢に攻めかかり、堅田を落とす。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月26日 38歳
堅田(近江国)にて、前波景当(浅井・朝倉勢)と坂井政尚(織田勢)が戦い、浅井・朝倉勢が勝利する。
浅井・朝倉勢:前波景当[大将](戦死)。
織田勢:坂井政尚[大将](戦死)、遠藤胤俊(戦死)。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月27日条、『尋憲記』同年12月13日条、(元亀2年)正月22日付山崎吉家書状案(『歴代古案』)、『言継卿記』同年月27日条、『寛政重修諸家譜』534「遠藤」

元亀1年 1570年 11月30日 38歳
朝倉勢の籠る堅田(近江国)を攻めを終えた織田信長に対し、足利義昭朝倉義景との和睦を勧めるため園城寺に赴く。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月13日 38歳
織田信長勢が瀬田(近江国)まで撤兵すること、高島郡(近江国)に人質を送ることを条件に信長と朝倉義景が和睦する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月14日 38歳
織田信長が軍勢を瀬田(近江国)の山岡景隆所まで戻す。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 39歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 7月29日 40歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月8日 40歳
朝倉義景の家臣・前波吉継が信長に寝返る。信長は吉継の寝返りを喜び御帷子、小袖、馬皆具を賜う。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月9日 40歳
朝倉義景の家臣 富田弥六、戸田与次、毛屋猪介が織田信長に寝返る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 9月16日 40歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に戻るべく横山城(近江国)を発つ。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 11月3日 40歳
小谷城(近江国)に籠城中の浅井長政朝倉義景が、織田方の虎御前砦より宮部村(近江国)まで築かれている築地を破却すべく、浅井七郎を足軽大将として遣わすが、秀吉が退ける。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀4年 1573年 4月12日 41歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 7月10日 41歳
二条城(山城国)に籠城している足利義昭勢が三淵藤英を除き織田信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 41歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 41歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月12日 41歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 41歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 41歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 41歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 41歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正2年 1574年 1月1日 
岐阜城(美濃国)に諸国の武士が礼に訪れる。諸国衆の礼が終わった後、馬廻衆のみにて酒宴を開き、朝倉義景浅井久政浅井長政の首を薄濃にして衡立に載せ、それを酒の肴とする。
出典:『信長公記』巻7(1)「義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事」

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