人 物 史

木村重茲 きむら しげこれ
生 没 年?-文禄4年(1595)7/15
出 身-幼 名-
別 称定光、重隆、重高
法 名-
戒 名常照院殿重高大居士
木村定重-
兄 弟 姉 妹木村重茲
配 偶 者宮内卿局
木村高成、娘、木村重成、篠原重之
官 位常陸介、隼人正
役 職-
城 郭府中城(越前国)、淀城(山城国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ木村重茲の家臣
木村重茲 年表
- -年 -月-日 
木村重茲が生まれる。
出典:-

天正10年 1582年 6月13日 
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正14年 1586年 6月3日 
上杉景勝が北之庄城(越前国)を出立し、麻生津にて長谷川秀一の振舞を受ける。府中(越前国)に到着し浄土宗寺院に宿泊する。府中の領主・木村重茲の出迎えは病のためなし。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月6日 
上杉景勝が府中(越後国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正17年 1589年 11月-日 
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。木村重茲は軍勢2300で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 5月20日 
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 12月28日 
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄2年 1593年 3月10日 
豊臣秀吉が牧使城攻めの軍勢を編成する。前田利家(軍勢7000)、蒲生氏郷(軍勢1500)、最上義光(軍勢300)、長谷川秀一(軍勢3000)、細川忠興(軍勢2000)、木村重茲(軍勢2000)、大谷吉継上杉景勝(軍勢5000)、蜂須賀家政(軍勢5000)、福島正則(軍勢3000)、戸田勝隆(軍勢2500)、中川秀成(軍勢2000)、小野木重次(軍勢600)、牧村政吉(軍勢400)、岡本重政(軍勢300)、糟屋武則(軍勢120)、高田治忠(軍勢180)、太田一吉(軍勢80)、片桐貞隆(軍勢120)、古田重勝(軍勢120)、新庄直定(軍勢180)、秋田実季(軍勢134)、本堂忠親(軍勢25)、大崎左衛門尉(軍勢10)、由利五人衆(軍勢88)の総勢37100。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄4年 1595年 7月8日 
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

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