人 物 史

荒木村重 あらき むらしげ
生 没 年天文4年(1535)-天正14年(1586)5/4
出 身-幼 名-
別 称十二郎、弥介、弥助
法 名道糞、道薫
戒 名秋英宗薫居士、心英道薫禅定門
荒木義村-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者池田長正の娘、北河原長勝の娘
荒木村次、荒木村基、岩佐又兵衛
官 位信濃守、摂津守
役 職-
城 郭有岡城(摂津国)
参 考 文 献荒木村重に関する参考文献
関 連 デ ー タ荒木村重の関連文化財
史料にみえる荒木村重の呼称
荒木村重 年表
天文4年 1535年 -月-日 1歳
荒木村重が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 21歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 24歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 36歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月18日 36歳
池田勝正が池田豊後守・池田周防神を殺害し出奔する。
出典:『言継卿記』同年月19日条、、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 6月19日 36歳
足利義昭の近江国への出陣が、18日の池田勝正の家内の内紛と三好長逸三好宗渭岩成友通が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月20日 36歳
池田21人衆の内、池田豊後守、池田周防守が殺害され、池田勝正池田城から追われ、刀禰山、次いで大坂(摂津国)に落ち延びる。勝正は足利義昭のもとに赴くとして、義昭のもとより上野秀政(軍勢500)、細川藤孝(軍勢200)、一色紀伊守、織田三郎五郎の合わせて軍勢2000余が山崎(山城国)に派遣される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 36歳
三好義継池田勝正が上洛する。
三好長逸岩成友通池田城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月28日 37歳
池田知正の討伐に向かった和田惟政が白井河原の戦いにて荒木村重と戦う。村重が惟政を討ち取り勝利する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年9月1日条

元亀4年 1573年 3月29日 39歳
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 7月16日 39歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。この城攻めに明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝忠興父子が五ヶ庄より攻める衆に加わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 39歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 39歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 39歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 39歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 39歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 39歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

- -年 -月-日 39歳
和田惟長が死去する。
出典:-

天正2年 1574年 3月27日 40歳
織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重佐久間信盛柴田勝家菅屋長頼丹羽長秀蜂屋頼隆塙直政松井友閑が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月28日 40歳
織田信長東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。
夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 7月20日 40歳
中島(摂津国)にて荒木村重と一向一揆勢が戦い、一揆勢が勝利する。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

天正3年 1575年 8月15日 41歳
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 41歳
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。
越前一向一揆を悉く成敗する。
府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 9月2日 41歳
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正4年 1576年 4月14日 42歳
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月3日 42歳
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月5日 42歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 42歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 42歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 42歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月16日 42歳
荒木村重より毛利家の水軍衆が警固100艘ばかりをもって岩屋(淡路国)に到着したため、尼崎(摂津国)に向かい船を揃えたという報告を受けた織田信長がその対応を評価するとともに、佐久間信盛・淡輪とともに防戦するように伝える。
出典:(天正4年カ)6月16日付織田信長黒印状(「佐藤孝雄氏所蔵文書」)

天正5年 1577年 2月13日 43歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 43歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 43歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 43歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 43歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 43歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月-日 43歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月22日 43歳
織田信長が香荘に逗留する。雑賀衆に備えるため、佐野村(和泉国)に築城を命じ、佐久間信盛明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉荒木村重を置き、根来寺杉之坊、津田太郎左衛門を定番として置く。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正6年 1578年 1月1日 44歳
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 4月-日 44歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 6月26日 44歳
羽柴秀吉荒木村重が高倉山(播磨国)の陣所を引き払い、書写山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月27日 44歳
神吉城(播磨国)攻めにつき、同城の北東に織田信忠神戸信孝佐久間信盛林秀貞細川藤孝が、西の山に丹羽長秀が布陣する。他に織田信包明智光秀荒木村重稲葉一鉄滝川一益筒井順慶蜂屋頼隆が城攻めに加わる。城攻めに際し、信孝が足軽衆と先陣を争う。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月28日 44歳
織田信忠が神吉城(播磨国)を攻める。城の南より織田信包が攻め入り、城の東口を滝川一益丹羽長秀が金掘り衆を入れ、かつ城楼を組み大鉄砲にて攻める。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月15日 44歳
滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)東丸を攻め落とす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月16日 44歳
佐久間信盛荒木村重が神吉城(播磨国)西丸に攻め入る。西丸にて防戦していた神吉藤大夫が降伏する。滝川一益丹羽長秀が神吉城(播磨国)の本丸に攻め入り、神吉民部少輔を討ち取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 10月21日 44歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 10月28日 44歳
奈良(大和国)にて荒木村重織田信長への謀反が噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 44歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 44歳
二条の御殿に滞在中の織田信長村井貞勝を朝廷につかわし本願寺顕如との和睦仲介を依頼する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 11月7日 44歳
松平家忠のもとに山崎(尾張国)にいる水野忠分より飛脚が到来し、荒木村重織田信長に敵対したことを伝える。また藤太は家忠に音信として鱈2本を贈る。家忠は平岩親吉にその鱈を贈る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月9日 44歳
織田信長荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 44歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月11日 44歳
羽柴秀吉黒田職隆に、11月10日、織田信長荒木村重討伐につき高槻(摂津国)に到着したこと、高槻城(摂津国)を包囲したところ城主の高山重友が信長に降伏したこと、滝川一益稲葉良通安藤守就氏家直昌・武藤が郡山(摂津国)に陣取り砦を築くことになったこと、職隆が村重に与同せず信長に逆らわなかったことは竹中重治より聞いたので秀吉より信長に伝えたところ信長は喜んでいたことを伝える。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)

天正6年 1578年 11月14日 44歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月15日 44歳
織田信長が郡山(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月18日 44歳
織田信長の命により、津田信澄茨木城(摂津国)への抑えとして置き、惣持寺(摂津国)寺中の要害普請に越前衆の不破光治前田利家佐々成政金森長近、日根野備中、日根野弥次右衛門、原長頼をあたらせる。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月23日 44歳
織田信長が惣持寺(摂津国)に赴く。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月24日 44歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月27日 44歳
織田信長が郡山(摂津国)から古池田(摂津国)に陣所を移す。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月28日 44歳
織田信長信忠父子が昆陽野(摂津国)に陣所を移す。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月-日 44歳
滝川一益丹羽長秀が西宮・茨住吉・芦屋・雀ヶ松原・御影・滝山・生田森(摂津国)に陣取り、荒木村重方の荒木志摩守が籠る花隈城(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月3日 44歳
荒木村重方の大輪田城(摂津国)に籠る安部二右衛門が、織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月4日 44歳
滝川一益丹羽長秀が一の谷(摂津国)を放火する。その後、両人は荒木村重が籠る有岡城(摂津国)を攻めるべく塚口(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月8日 44歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 44歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 12月16日 44歳
織田信長荒木村重の妻・だしを六条河原にて処刑する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 12月21日 44歳
織田信長が古池田(摂津国)より上洛し京都に入る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月25日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正7年 1579年 1月9日 45歳
武田勝頼吉川元春に、荒木村重織田信長に謀叛したことについて、毛利家の本意に属すことであり、足利義昭を奉じて速やかに京都へ出勢すべきことを毛利輝元に諫言するように伝える書状を発給する。
出典:(天正7年)1月9日付武田勝頼書状写(『戦国遺文』武田氏編5巻-3067号、吉川家文書)

天正7年 1579年 3月5日 45歳
織田信長有岡城(摂津国)の荒木村重を攻めるべく、京都を出陣し、山崎(山城国)に滞在する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年5月1日条、『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月6日 45歳
織田信長が天神馬場(摂津国)にて鷹狩をする。その日、郡山(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月7日 45歳
織田信長が古池田(摂津国)に陣取る。織田信忠不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近等が荒木村重が籠る有岡城(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月6日 45歳
2月5日に毛利輝元が畿内に向けて出勢したのを受け、武田勝頼は織田領の尾張・美濃、徳川領の三河に出勢することを吉川元春に伝える。また、本願寺顕如荒木村重が健在なうちに足利義昭の入洛を成し、畿内静謐を図るよう輝元に諫言するよう元春に依頼する。
出典:(天正7年)4月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3117号、吉川家文書)

天正7年 1579年 4月18日 45歳
荒木村重有岡城(摂津国)より稲葉貞通の守る河原砦に足軽を出し攻める。塩川伯耆、氏家直昌が応戦する。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 4月29日 45歳
織田信長有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 8月20日 45歳
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 45歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 45歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 45歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 45歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 45歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 45歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 45歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 45歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 45歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月19日 45歳
有岡城(摂津国)を守備していた荒木久左衛門が、城中に妻子を人質として残し置き、織田方の津田信澄を城に入れ、尼崎(摂津国)にいる荒木村重のもとに赴き、尼崎・花隈(摂津国)を織田信長に進上するよう進言する。
出典:『信長公記』巻12(15)「伊丹の城にこれある年寄共、妻子・兄弟捨置退出の事」

天正7年 1579年 11月20日 45歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正7年 1579年 12月13日 45歳
辰刻(7-9時)、織田信長有岡城(摂津国)の人質衆の女房をはじめ600余人を家の追い入れ焼き殺す。検使は矢部家定
有岡城は信長の小姓衆により二十日番制で管理される。
出典:『多聞院日記』同年月14日条、『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正7年 1579年 12月16日 45歳
辰刻(7-9時)、織田信長荒木村重の妻子・兄弟を上京一条辻から室町通を通って六条河原まで引き回し、六条河原にて処刑する。奉行は不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 閏3月2日 46歳
花隈城(摂津国)に籠城中の荒木村重勢が同城攻めのため池田恒興元助輝政が在番していた砦に攻め入る。恒興は荒木勢を退ける。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正11年 1583年 7月14日 49歳
本願寺顕如が、羽柴秀吉への毛利家の使者として安芸よりにやってきた安国寺恵瓊荒木村重に書状を送り、大坂本願寺退散以来無音であったことを謝す。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正11年 1583年 9月17日 49歳
貝塚動座の礼として本願寺顕如羽柴秀吉へ遣わした下間頼廉、寺内若狭、益田照従大坂城(摂津国)にて秀吉に対面する。対面時の相伴の衆は松井友閑前田利家千宗易津田宗及荒木道薫。頼廉は秀吉より馬を賜る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 5月4日 52歳
荒木村重が死去する。
出典:-

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