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寺 院 史
山科本願寺(山城国)
やましなほんがんじ
本 尊
阿弥陀如来
創 建
-
開 基
-
山 号
-
宗 派
-
別 称
-
関連宗教施設
-
現 所 在 地
〒-
京都府京都市山科区西野阿芸沢町(山科中央公園)
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旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
-
山科本願寺 年表
文明10年 1478年 1月-日
海老名氏が
蓮如
に山科野村にて寺地を寄進する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
文明11年 1479年 -月-日
山科本願寺
の作事が始まる。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」
文明12年 1480年 8月-日
山科本願寺
の御影堂が完成する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」
文明12年 1480年 10月-日
近松(近江国)に安置していた親鸞像を
山科本願寺
の御影堂に安置する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
文明13年 1481年 12月4日
『慕帰絵詞』が
山科本願寺
の宝蔵に戻る。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
文明14年 1482年 6月-日
山科本願寺
の阿弥陀堂が完成する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
文明14年 1482年 11月-日
『慕帰絵詞』の欠巻である第1巻、第7巻を補う。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
文明15年 1483年 1月-日
山科本願寺
の多屋6ヶ寺、7坊が完成する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
明応7年 1498年 5月18日
蓮如
が金宝寺(山城国洛中四条)を発ち、山科本願寺に向かう。
出典:『紫雲殿由縁起』(『真宗全書』本p146)
明応8年 1499年 3月25日
蓮如
が死去する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」
享禄5年 1532年 5月19日
畠山義堯
が
木沢長政
の
飯盛山城
(河内国)を攻める。
出典:『細川両家記』
享禄5年 1532年 6月15日
畠山義堯
が
木沢長政
の籠る
飯盛山城
(河内国)を攻撃していたところ、
細川晴元
が長政を救援すべく、
本願寺証如
に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し
飯盛山城
の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。
出典:『細川両家記』
享禄5年 1532年 6月20日
細川晴元
が
本願寺証如
に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、
三好元長
の居所である
堺
の顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条
享禄5年 1532年 7月19日
一向一揆勢2000が
山崎
(山城国)に攻め込み西岡衆と戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条
天文1年 1532年 8月2日
堺
にいた
細川晴元
が一向一揆勢に包囲されるが、合戦にて勝利する。
出典:『二水記』同年月3日条
天文1年 1532年 8月5日
一向一揆勢が
細川晴元
の居る
堺
北荘に攻め入るが、
木沢長政
の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。
池田城
(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。
出典:『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事
天文1年 1532年 8月8日
堺
に居る
細川晴元
が
大坂本願寺
に軍勢を遣わすも一向一揆勢が細川勢を退ける。
出典:『経厚法印日記』同年月日条
天文1年 1532年 8月11日
蓮淳
が
山科本願寺
に移る。
出典:『私心記』同年月日条
天文1年 1532年 8月23日
法華衆および
六角定頼
の軍勢30000-40000が
山科本願寺
を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。
出典:『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条
天文1年 1532年 8月24日
早朝より
山科本願寺
が法華衆や
六角定頼
勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。
定頼は夜に帰陣する。
出典:『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』
天文1年 1532年 8月25日
山科本願寺
の焼跡地から財宝が取り出される。
出典:『二水記』同年月日条
天文1年 1532年 8月26日
山科本願寺
の焼跡地から財宝が持ち出される。黄金数百両が持ち出されたという。
出典:『二水記』同年月日条
天文6年 1537年 7月12日
海老名将監が
山科本願寺
寺中地子銭(坊跡から亭にいたるまでの8町分)二季あわせて3貫文の支払いを
本願寺証如
に請求する。証如は地子銭を支払う。
出典:『天文日記』同年月日条
天文10年 1541年 3月10日
本願寺証如
が、
山科本願寺
跡地の地子銭を、醍醐寺三宝院に未納しているため路地封鎖行っていることについて、幕府より停止するようにとの命令が出され、醍醐寺よりも了承の返答があったことから、幕府に御礼として馬代1000疋を進上する。地子銭を払わなくてもよくなった理由は、山科本願寺を再興する考えがないことによる。
出典:『天文日記』同年月日条
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