人 物 史

木沢長政 きざわ ながまさ
生 没 年?-天文11年(1542)3/17
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
木沢浮〓-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
ねや法師
官 位左京亮
役 職河内国守護代
城 郭飯盛山城(河内国)、信貴山城(大和国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ木沢長政の家臣
木沢長政 年表
- -年 -月-日 
木沢長政が生まれる。
出典:-

享禄5年 1532年 5月19日 
畠山義堯木沢長政飯盛山城(河内国)を攻める。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月15日 
畠山義堯木沢長政の籠る飯盛山城(河内国)を攻撃していたところ、細川晴元が長政を救援すべく、本願寺証如に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し飯盛山城の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。
出典:『細川両家記』

天文1年 1532年 8月4日 
細川晴元本願寺証如が敵対関係となる。(『私』)
木沢長政の衆が一向一揆勢と喧嘩し殺害される。長政はその報復として、の東にあるあさかの道場の近郷を放火する。
出典:『私心記』同年月日条、『祇園執行日記』同年月日条、『細川両家記』

天文1年 1532年 8月5日 
一向一揆勢が細川晴元の居る北荘に攻め入るが、木沢長政の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。
池田城(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。
出典:『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事

天文2年 1533年 3月24日 
木沢長政が上洛する。
出典:『私心記』同年月日条

天文2年 1533年 3月29日 
一向一揆に攻撃されている伊丹城(摂津国)を救援すべく、法華衆を引き連れ同城の後詰に駆け付け一向一揆を破る。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 5月5日 
三好千熊丸木沢長政、法華衆が大坂本願寺を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 5月20日 
細川晴元本願寺証如の和睦が成立する。大坂本願寺を攻めていた三好千熊丸木沢長政、法華衆が同寺より撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 6月21日 
木沢長政が6月20日に天王寺にて切腹したとの噂が流れる。
出典:『私心記』同年月日条

天文2年 1533年 -月-日 
木沢長政細川晴元に叛旗を翻した三好長直を説得し晴元に仕えさせる。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文2年 1533年 11月16日 
木沢長政が大和衆を引き連れ、大坂本願寺近辺を焼き討ちする。
出典:『私心記』同年月日条

天文3年 1534年 7月20日 
木沢長政三好政長が軍勢20000をもって細川晴国方の嵯峨城(西芳寺城)(山城国)を攻める。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文3年 1534年 11月14日 
大和において木沢長政と越智氏が戦い、越智氏が勝利する。
出典:『私心記』同年月日条

天文3年 1534年 11月-日 
木沢長政に十一郷・山科七郷が給付される。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文5年 1536年 1月17日 
木沢長政山崎(山城国)に入る。
出典:『天文日記』同年1月20日条

天文5年 1536年 1月18日 
木沢長政のもとへ本願寺証如より使者・藤井八郎左衛門が訪れ、大和国吉野上市下市還住のことについて述べる。本願寺は越智氏を介して還住を遂げようとしていると述べたため、大和国は木沢自身が守護であり進退する国であることを主張する。
出典:『天文日記』同年1月20日条

天文5年 1536年 3月19日 
本願寺証如木沢長政に即位の辻固めにつき太刀1腰・馬1疋を、中坊に3種2荷を送る(使者は横田出雲)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 3月21日 
本願寺証如のもとに3/19の木沢長政・中坊への音信の返事がやってきて、長政より後柏原天皇の宸筆題12枚が贈られる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 6月26日 
この頃までに木沢長政信貴山城(大和国)を築城し当城に移る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 7月11日 
延暦寺と法華衆の確執について木沢長政進藤貞治が申し合わせをする。
出典:『巌助往年記 上』同年月日条

天文5年 1536年 7月27日 
木沢長政が軍勢を催し天王寺まで出陣する。
出典:『私心記』同年月日条

天文5年 1536年 7月29日 
木沢長政、三好長直、三好政長が中島(摂津国)に侵攻する。それにつき本願寺証如が長政に無事中島に侵入したことを祝う使者を送る(使者は藤井八郎左衛門尉)。その際、長政より本陣である天王寺より兵糧を中島に運び入れるにあたって、運搬のための船を所望され、また兵糧も少々所望される。証如は船5艘と飯を送る。この事件により大坂本願寺の備えを厚くするため、加賀四郡番衆が武具を購入したいので100貫の借用を願い出たので、証如は100貫を貸し与える。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 細川晴国最後ノ事

天文5年 1536年 8月9日 
木沢長政が、巳刻(9-11時)中島(摂津国)より天王寺に帰陣。その後、信貴山城(大和国)に帰る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 10月2日 
本願寺証如細川晴元の入洛を祝し太刀1腰・5合5荷・書状を送る。また木沢長政も入洛したので、長政へも太刀1腰・3種5荷・書状を送る。使者は横田出雲。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 11月7日 
木沢長政が、夕方、に入る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 閏11月7日 
木沢長政の京都より信貴山城(大和国)への帰城につき本願寺証如が3種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 12月27日 
本願寺証如六角定頼との和与について、尽力してくれた木沢長政へ御礼の書状を送る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 4月24日 
木沢長政の子・ねや法師の元服につき本願寺証如から太刀・馬代1000疋(10貫)・瓶が送られる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 6月4日 
木沢長政信貴山城(大和国)に帰城する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 8月16日 
木沢長政の大和出陣につき本願寺証如が5種10荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 11月23日 
久宝寺・出口光善寺の寺領・買得地を返付することが本願寺証如に伝わる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 12月15日 
本願寺証如が大和に陣をはる木沢長政に太刀1腰・3種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 12月15日 
本願寺証如が歳暮として木沢長政に太刀1腰を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 12月24日 
本願寺証如細川晴元の和睦につき、証如が木沢長政に300貫を贈る(使者が出たのは25日)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 12月29日 
歳暮として木沢長政本願寺証如に贈った太刀1腰が証如のもとに届く。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月6日 
年始の礼として木沢長政本願寺証如に贈った太刀1腰が証如のもとに届く。使者は小野民部丞。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月16日 
年始の礼として本願寺証如木沢長政に太刀1腰・3種5荷を贈る。使者は冷水弥九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月26日 
木沢長政興福寺に敵対していた戒重将監を幕府の命により討ち取る。
出典:『蜷川親俊日記』同年2月3日条

天文7年 1538年 3月5日 
木沢長政が尾張国の織田右衛門尉より依頼を受け、有事の際は本願寺証如から願証寺(長島)や興善寺に織田右衛門尉の味方をするよう依頼する。証如はその依頼を承諾する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月13日 
三好長慶三好政長が決裂する。これにつき、長慶に足利義晴より六角定頼から細川晴元に交渉をするので出陣を延期するようにと伝える御内書が発給される。また、長慶に与同する伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅国村、芥川豊後守、木沢長政へも御内書が発給される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文10年 1541年 1月8日 
木沢長政本願寺証如に初陽の祝慶として書状を送る。使者は小野但馬。但馬が到着したのは夕方であったためこの日は証如と対面せず。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 1月9日 
8日に到着した木沢長政の使者 小野但馬が本願寺証如と対面する。1献にてもてなす。
山中蔵人より年首の祝儀として使者が訪れる。綱所にて使者に盃を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 6月20日 
石清水八幡宮若宮造営および遷宮につき大和国に段銭を賦課したので興福寺と国民中とともに等祥蔵主を納めるよう命じる室町幕府奉行人連署奉書が木沢長政に発給される。
出典:天文10年6月20日付室町幕府奉行人連署奉書(『石清水文書』6-周囲49(『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3473号))

天文10年 1541年 8月18日 
本願寺証如が笠置城(山城国)を落とし、同城に向かった木沢長政に音信として3種5荷を贈る。使者は藤井八郎左衛門。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 9月5日 
本願寺証如木沢長政のもとに朝倉孝景と和睦した旨を伝える使者を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 9月7日 
本願寺証如のもとに証如と朝倉孝景が和睦したことを喜ぶ使者を木沢長政が遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 10月2日 
三好長慶、波多野が塩川城(摂津国)を攻撃中、木沢長政が裏切ったため、長慶等は塩川城より撤退すると、京都にて風聞が伝わる。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 10月8日 
本願寺証如飯盛山城(河内国)にいる木沢長政に、摂津への軍勢派遣につき、音信として書状と3種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日・9日条

天文10年 1541年 10月11日 
8日の本願寺証如の音信に対する木沢長政の返事及び鷹雁1が証如のもとに届く。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 10月15日 
本願寺証如が在陣中の木沢左馬允に3種5荷、木沢右近・三宅国村・瓦林対馬に3種3荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 10月16日 
細川晴元が、晴元に謀叛を起こした木沢長政の討伐のため鷹山弘頼に軍勢催促をする。
出典:(天文10年)10月16日付細川晴元書状(『戦国遺文』三好氏編第1巻-157号「興福院文書」)

天文10年 1541年 10月26日 
本願寺証如が音信として書状・綿10把を木沢長政に贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 10月29日 
木沢長政細川晴元に謀叛を起こす。早朝、晴元は岩倉(山城国)の山本氏の館に赴くが、その日のうちに引き返す。足利義晴が晴元に供奉するよう命じたが、晴元は応じず。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 11月27日 
木沢長政が中坊をもって久々に本願寺証如に音信として3種5荷を贈る。
長政が山城国に向かう。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条

天文10年 1541年 11月28日 
木沢長政が笠置城に攻め寄せた伊賀衆を破る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文10年 1541年 11月30日 
本願寺証如が笠置城を攻め落とした木沢長政に戦勝を祝す使者を派遣する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月8日 
細川晴元木沢長政を対治するため芥川山城(摂津国)まで軍勢を寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月15日条

天文10年 1541年 12月20日 
足利義晴本願寺証如に御内書を発給し、河内国門徒が木沢長政に加勢しないように同国門徒中へ指示するよう命じる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月22日 
本願寺証如が12月20日請け取った御内書の旨に従うことを、足利義晴に返事する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月26日 
本願寺証如が歳末の礼として細川晴元に太刀1腰、三好長慶に太刀1腰を贈る。使者は大坂小五郎。
証如が出陣中の芥川孫十郎・池田長正に太刀1腰・梅染2端を贈る。
証如が木沢長政に藤井八郎左衛門を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月1日 
木沢長政天王寺山中城を焼き破却する。
出典:『私心記』同年月日条

天文11年 1542年 3月8日 
遊佐長教が高屋(河内国)にて長政の弟・中務の父である斎藤山城守を殺害する。
13日に畠山稙長が紀伊国より熊野衆の龍神・山本・玉木・湯川・アイソ・一瀬、根来寺衆、高野山粉河寺衆の計30000を率いて河内国に入国するとの噂が京都、奈良にて流れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月9日 
遊佐長教が斎藤山城守を殺害したことが幕府に伝わる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月21日条

天文11年 1542年 3月17日 
木沢長政信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元三好長慶三好政長六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。
合戦後、信貴山城が焼失する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条

天文11年 1542年 3月19日 
細川晴元より木沢長政の首が足利義晴のもとに届く(使者は山中橘左衛門尉)。これを受け、晴元に長政と遊佐又五郎を討ち取ったことは神妙との旨を記した御内書を発給する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.