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   地 名 の 歴 史

山崎(大山崎) やまさき
初 見-
山城国
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荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
山崎(大山崎) 年表
和暦 西暦 事項 出典
大永7年1527211三好勝長、三好政長山崎(山城国)に到着し、柳本賢治と合流する。『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」
享禄2年152911山崎(山城国)にて柳本賢治と伊丹弥三郎が戦い、賢治が弥三郎を討ち取る。『細川両家記』
享禄5年1532719一向一揆勢2000が山崎(山城国)に攻め込み西岡衆と戦う。『言継卿記』同年月日条
天文1年1532926山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦う。『二水記』同年月日条
天文1年1532926一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が山崎(山城国)にて戦っているのをうけ、上京の町衆が集会のため革堂の鐘を、下京の町衆が六角堂の鐘を鳴らす。『二水記』同年月日条
天文1年1532928山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦い、一揆勢が勝利する。薬師寺国長、一宮堅成が撤退する。『二水記』同年月日条
天文5年1536117木沢長政山崎(山城国)に入る。『天文日記』同年1月20日条
天文5年1536924細川晴元山崎(山城国)より上洛する。『巌助往年記』同年月日条
天文7年153835細川晴元山崎(山城国)にて城を築く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539閏617三好利長(長慶)三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。
利長が大山崎(山城国)に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、押買・所質取りを禁じる禁制を発給する。
利長が大徳寺に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
天文8年閏6月17日付三好利長禁制写(『戦国遺文』三好氏編第1巻-121号「疋田家本離宮八幡宮文書」)
天文8年1539714三好政長が高雄(山城国)より妙心寺・西京に攻め入ったのを受け、三好利長(長慶)山崎(山城国)より三好伊賀守を金乗寺に出陣させる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539926細川晴元山崎(山城国)より上洛する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文10年15411113三好範長(長慶)在陣につき祈祷巻数・銭100疋を送ってくれた大山崎惣中に、範長が礼状を発給する。(天文10年)11月13日付三好範長(『戦国遺文』三好氏編第1巻-158号「離宮八幡宮文書」)
天文11年15421-三好長慶大山崎(山城国)に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。天文11年1月日付三好孫次郎禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-164号「離宮八幡宮文書」)
天文15年15461111三好之虎大山崎荘(山城国)に三好勢による濫妨狼藉、竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。天文15年11月11日付三好実休禁制(「離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-184号)
天文18年15495-三好長慶大山崎に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火、山河殺生、矢銭・兵糧米の賦課、押買を停止する禁制を発給する。天文18年5月日付三好長慶禁制(「疋田家本離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-231号)
天文18年1549625六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」
天文18年15497-十河一存大山崎(山城国)に十河勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。天文18年7月日付十河一存禁制(「離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-249号)
天文18年15497-六角定頼が摂津国にて細川晴元が死亡したと聞き、山崎(山城国)まで軍勢を進めるが、無事であることを知り京都に戻る。『厳助大僧正記』同年同月条
天文19年1550714三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
『言継卿記』同年月日条
天文20年1551314三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
『言継卿記』同年月14・15日条
天文20年1551326山崎(山城国)にいる三好長慶のもとに山科言継の使者・大澤掃部が訪れるが逢えず。掃部には松永久秀、鳥養兵部が応対する。『言継卿記』同年月日条
永禄7年1564713山科言継大坂本願寺に赴くため京都を発つ。鳥羽(山城国)にて乗船。淀(山城国)にて大船に乗り換える予定であったが、大坂行きの船がなく交渉するもかなわなかったため山崎(山城国)まで赴き水無瀬(摂津国)にて逗留する。『言継卿記』同年月日条
永禄7年1564811山科言継が若江荘(河内国)一宮の遷宮法楽猿楽見物のため、辰刻(7-9時)に大坂を出立する。辰下剋(8時)、上洛のため若江荘を発つ。枚方(河内国)にて昼休憩をし、山崎(山城国)にて酒を飲む。申下刻(16時)に帰宅する。『言継卿記』同年月日条
永禄8年156512-三好長逸岩成友通三好宗渭が連署で、大山崎(山城国)に、三好三人衆勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課、国質所質、荏胡麻油商買の諸職について停止する旨の禁制を発給する。永禄8年12月日付三好三人衆禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1228号「離宮八幡宮文書」)
永禄11年1568927織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
『言継卿記』同年月日条
永禄11年1568928織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」
永禄11年15689-松永久通大山崎(山城国)に松永勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。永禄11年9月日付松永久通禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1426号「離宮八幡宮文書」)
永禄11年15689-三好義継大山崎に三好義継勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。永禄11年9月日付三好義継禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1425号「離宮八幡宮文書」)
天正6年1578119織田信長荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正7年157935織田信長有岡城(摂津国)の荒木村重を攻めるべく、京都を出陣し、山崎(山城国)に滞在する。『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年5月1日条、『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」
天正7年1579921織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」
天正7年1579924織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」
天正7年15791214織田信長山崎(山城国)より妙覚寺に移る。『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」
天正8年1580227織田信長山崎(山城国)に移る。信長は津田信澄、塩川伯耆、丹羽長秀に花隈城(摂津国)攻めるべく当地に赴き、砦を築いて池田恒興元助輝政父子を入れるように命じる。『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年1580228織田信長が雨のため山崎(山城国)に逗留する。信長のもとへ根来寺岩室坊が礼に訪れる。『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年1580229織田信長山崎(山城国)の西山にて鷹狩をする。『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年1580230織田信長山崎(山城国)の西山にて鷹狩をする。『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年158037織田信長有岡城(摂津国)より山崎(山城国)に移る。『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正10年1582612明智光秀が八幡、山崎(以上、山城国)に布陣する。
羽柴秀吉池田恒興とともに摂津国に軍勢を進める。中川清秀高山重友を先陣をつとめ山崎(山城国)に布陣。以下、羽柴勢は山崎から天神馬場(摂津国)に展開する。秀吉は織田信孝を待つため富田(摂津国)に宿す。
『多聞院日記』同年月日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)
天正10年1582613山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」
天正10年1582925筒井順慶が26日に山崎(山城国)の財寺城にいる羽柴秀吉のもとへ見舞いに赴くため上洛する。『多聞院日記』同年月日条
天正10年1582927筒井順慶山崎(山城国)より奈良(大和国)に帰り、中坊に宿泊する。
伊賀国に軍勢3000を遣わす。
『多聞院日記』同年月日条
天正10年15821023筒井順慶羽柴秀吉を見舞うため、山崎(山城国)に赴く。『多聞院日記』同年月日条
天正10年15821024筒井順慶山崎(山城国)より大和国に戻る。『多聞院日記』同年月25日条
天正10年15821027羽柴秀吉山崎(山城国)の城より上洛する。『天正日記』同年月日条
天正10年15821229羽柴秀吉山崎(山城国)に到着する。『天正記』「柴田合戦記」
天正11年158312筒井順慶山崎(山城国)にいる羽柴秀吉のもとへ礼に赴く。『多聞院日記』同年月日条
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