人 物 史

三好元長 みよし もとなが
生 没 年文亀1年(1501)-享禄5年(1532)6/20
出 身阿波国幼 名-
別 称長基
法 名開運
戒 名南宗寺海雲善室、善室統慶
三好長秀-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存、野口冬長
官 位筑前守
役 職山城国守護代
城 郭-
参 考 文 献三好元長に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる三好元長の呼称
三好元長の関連文化財
三好元長 年表
文亀1年 1501年 -月-日 1歳
三好元長が生まれる。
出典:-

文亀1年 1501年 2月29日 1歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 4歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正17年 1520年 5月5日 20歳
巳刻(9-11時)、細川高国の軍勢が鴨川を渡り、三好之長勢が布陣する上京に攻め入る。高国は本陣を川崎の天神に置き、午刻(11-13時)には等持寺の東南にて高国と之長が戦う。戦中、讃岐勢の香川・安富・久米・河村が高国方に寝返り、亥刻(21-23時)、之長・長光長則は京都より逃亡し、高国が勝利する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月9日 20歳
曇華院に逃れていた三好之長長光長則細川高国勢が包囲する。之長は高国に詫びを入れ、赦免される。
出典:『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月10日 20歳
曇華院に匿われていた三好長光長則細川高国に降伏する。両名は高国と対面した後、上京の安達の宿所に置かれる。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月12日 20歳
三好之長の切腹を聞かされた三好長光長則が切腹する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月11日 20歳
曇華院に匿われていた三好之長細川高国に降伏する。高国は之長を許さず、知恩寺に切腹するよう命じ、之長は切腹する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

永正17年 1520年 5月15日 20歳
三好之長長光長則の葬礼が蓮台寺にて執り行われる。
出典:『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

大永1年 1521年 8月23日 21歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永2年 1522年 2月13日 22歳
子・長慶が生まれる。
出典:-

大永7年 1527年 3月22日 27歳
足利義維細川晴元が阿波国よりに入る。
出典:『細川両家記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 3月23日 27歳
細川晴元北荘・南荘に、地下への宿泊免除、喧嘩、押買・押売、3銭以上の窃盗、濫妨狼藉(博打)の停止を定めた定書を発給する。北荘宛は右衛門尉・可竹軒周聡連署、南荘宛は三好元長、可竹軒周聡連署。
出典:大永7年3月23日付細川晴元掟書案(『蜷川家文書』2-494・495号)

大永7年 1527年 9月14日 27歳
三好元長が軍勢を率いを発ち尼崎(摂津国)に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 9月17日 27歳
三好元長伊丹城(摂津国)を攻める。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月13日 27歳
足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月25日 27歳
足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月28日 27歳
三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月29日 27歳
川勝寺にて畠山義堯・遊佐河内守と朝倉宗滴が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 11月17日 27歳
三好元長、波多野稙通、赤井、柳本賢治が長坂口より足利義晴の陣所に攻め入る。元長、賢治、赤井は本圀寺に陣取り、東寺への通路を塞ぐ。稙通は本能寺に陣取る。
出典:『言継卿記』・『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 11月18日 27歳
三好元長が西院(山城国)に陣取る。(『細』)
三好元長勢と朝倉家の印牧氏と戦い、三好勢が50人ばかりを討たれる。(『言』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『細川両家記』

大永7年 1527年 11月26日 27歳
三好元長の軍勢が前典薬刑部卿入道宗成の所に討ち入り預物を奪う。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 12月14日 27歳
下京にて細川道永勢と三好元長柳本賢治勢が戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年? 1527?年 -月-日 27歳
子・之虎が生まれる。
出典:-

大永8年 1528年 1月21日 28歳
六角定頼三好元長細川晴元細川道永の和睦を取りまとめる。
出典:『細川両家記』

享禄1年 1528年 8月20日 28歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年? 1528年 -月-日 28歳
子・安宅冬康が生まれる。
出典:-

享禄2年 1529年 8月10日 29歳
三好元長が阿波国に帰国する。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 2月21日 31歳
細川晴元の要請により三好元長に到着する。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 2月28日 31歳
細川道永伊丹城(摂津国)を攻める。道永の攻撃に耐えられなくなった高畠長直が、城を道永に明け渡し池田城(摂津国)に移る。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月6日 31歳
細川道永池田城(摂津国)を攻め落とす。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月10日 31歳
細川道永にいる足利義澄・細川晴元を攻めるべく淀川を越え、中島(摂津国)に陣取る。先陣を住吉のこまつに陣取らせるが、より出撃した晴元勢に敗れる。諸勢は天王寺、今宮、木津、難波に、道永は中島の内の浦井に、浦上村宗は野田・福島(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 3月25日 31歳
細川政之が兵8000を率いに到着する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 閏5月13日 31歳
細川典厩、香川信景が築島に、三好元長が住吉の津守口遠里小野に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月4日 31歳
細川道永勢が布陣する天王寺、今宮、木津に三好元長が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月5日 31歳
尼崎(摂津国)にいた細川道永を三好一秀が捕縛する。一秀より細川晴元に捕縛の報告があり、晴元は切腹させるように命じる。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 6月6日 31歳
細川道永が大物(摂津国)の広徳寺にて切腹する。
出典:『細川両家記』

天文1年 1532年 -月-日 32歳
子・十河一存が生まれる。
出典:-

享禄5年 1532年 1月19日 32歳
三好一秀が西岡(山城国)を放火する。
出典:『二水記』同年月日条

享禄5年 1532年 1月20日 32歳
三好元長下京の柳本城(山城国)を攻める。三好一秀に城の西側から攻めさせる。ただし矢合わせをし退く。
出典:『二水記』同年月日条

享禄5年 1532年 1月22日 32歳
三好元長下京三条の柳本城を攻撃し落とす。籠城していた柳本甚次郎・木島与吉兵衛尉・中井彦七を自害させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『陰徳太平記』巻7「畠山総州三好開運自害之事」

享禄5年 1532年 1月23日 32歳
1月22日の三好元長による柳本甚次郎殺害の件で、細川晴元が細川持隆を折檻し、持隆と持隆被官人80が髻を切る。
出典:『二水記』同年月日条

享禄5年 1532年 1月23日 32歳
三好元長にて死亡したと京都で噂される。
出典:『二水記』同年月日条

享禄5年 1532年 2月23日 32歳
三好元長南禅寺真乗院に山城国紀伊郡深草にある同院領の散在地および末寺 栄松寺の知行を認める書下を発給する。
出典:享禄5年2月23日付三好元長書下(「真乗院文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-86号)

享禄5年 1532年 3月5日 32歳
細川晴元三好元長を成敗するため軍勢催促状を発給する。
出典:(享禄5年)3月5日付細川晴元書状(「末吉文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考13号)

享禄5年 1532年 4月6日 32歳
細川晴元池田城(摂津国)に入城する。
出典:『私心記』同年月日条

享禄5年 1532年 4月12日 32歳
三好開運吉田兼右に吉田社領を安堵状を発給する。
出典:『兼右卿記』同年月12月24日条(『ビブリア』150号)

享禄5年 1532年 6月19日 32歳
子・千熊丸を阿波国に落とす。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月20日 32歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 8月9日 
子・三好千熊丸千満丸兄弟が連署で三好元長の菩提所である見性寺に阿波国上郡山本分を寄進する。
出典:天文1年8月9日付三好長慶・三好実休連署書下(「見性寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-101号)

天文7年 1538年 6月14日 
本願寺証如三好元長の七回忌として三好長慶のものとに小経1巻・500疋を贈る。使者は円山隠岐。
出典:『天文日記』同年月日条

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