寿永1年 1182年 5月27日 |
「養和」より「寿永」に年号が改まる。 源頼朝は「治承」年号を復して用いる。 |
出典:- |
寿永1年 1182年 8月12日 |
源頼家が相模国鎌倉比企ヶ谷の比企能員邸にて生まれる。 |
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寿永2年 1183年 -月-日 |
北条泰時が生まれる。 |
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寿永2年 1183年 5月13日 |
俱利伽羅峠にて平維盛と源義仲が戦い、義仲が勝利する。平惟時が戦死する。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永2年 1183年 6月1日 |
藤早(加賀国)にて平時基が戦死する。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永2年 1183年 7月25日 |
源義仲が延暦寺に陣取る。 平宗盛は安徳天皇を連れ西国に逃れる。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永2年 1183年 7月28日 |
源義仲、源行家が京都に入る。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永2年 1183年 11月21日 |
松殿師家が摂政となる。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永2年 1183年 12月20日 |
源頼朝の命を受けた梶原景時が、鎌倉(相模国)の御所内にて上総広常を殺害する。 |
出典:- |
寿永3年・治承8年 1184年 1月21日 |
粟津(近江国)にて源範頼・源義経と源義仲が戦い、義仲は戦死する。 |
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寿永3年・治承8年 1184年 2月4日 |
平宗盛等が一谷(摂津国)に城を構え軍勢を集める。 |
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寿永3年・治承8年 1184年 2月7日 |
一ノ谷(摂津国)にて源範頼・源義経と平宗盛・平知盛が戦い、範頼・義経が勝利する。平忠度、平経正、平敦盛が戦死する。 |
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寿永3年 1184年 3月27日 |
源頼朝が正四位下に叙される。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永3年 1184年 3月28日 |
平維盛が死去する。 |
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元暦1年 1184年 4月16日 |
源頼朝が「治承」より「元暦」に年号を改める。 平宗盛は「寿永」年号を継続して用いる。 |
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元暦1年 1184年 4月26日 |
源頼朝の追手が武蔵国にて源義高を捕らえ、入間川の河原にて藤内光澄が義高を殺害する。 |
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元暦1年 1184年 7月28日 |
後鳥羽天皇が即位する。 |
出典:『北条九代記』上 |
寿永4年 1185年 3月24日 |
壇ノ浦にて源義経と平宗盛が戦い、義経が勝利する。安徳天皇は平時子とともに入水自殺する。平教盛、平経盛、平知盛、平忠房、平行盛、平有盛も入水し死去する。宗盛、平清宗、平信忠は源氏勢に捕らえられる。 |
出典:『北条九代記』上 |
元暦2年 1185年 4月27日 |
源頼朝が従二位に叙される。 |
出典:『北条九代記』上 |
元暦2年 1185年 6月15日 |
島津忠久が鎌倉(相模国)にて源頼朝に拝謁する。忠久と名乗り、左兵衛少尉に任じられる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠久」の項 |
元暦2年 1185年 6月21日 |
篠原宿(近江国)にて源義経が平宗盛を処刑する。 |
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元暦2年 1185年 6月23日 |
南都衆徒が平重衡を木津川にて処刑する。同衆徒は重衡の首を般若寺門前に梟首する。 |
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文治1年 1185年 8月14日 |
「元暦」より「文治」に年号が改まる。 |
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文治1年 1185年 8月17日 |
島津忠久が島津荘下司職に補任される。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠久」の項 |
文治2年 1186年 1月8日 |
島津忠久が信濃国塩田荘の地頭職に補任される。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠久」の項 |
文治2年 1186年 3月9日 |
武田信義が死去する。 |
出典:- |
文治2年 1186年 8月2日 |
島津忠久が薩摩国に入部し、出水郡山門院の木牟礼に城を築き、入城する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠久」の項 |
文治2年 1186年 11月18日 |
源義経の捜索について院評定が行われ、畿内・北陸道に義経追捕の宣旨を出すことが決定する。 |
出典:『吾妻鏡』同年11月29日条 |
文治3年 1187年 2月10日 |
源義経が伊勢・美濃を経て陸奥の藤原秀衡を頼るため、妻とともに山伏や児童に扮して逃れていることが噂される。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |
文治3年 1187年 8月3日 |
筥崎宮の宮司 秦親重が筑前国那珂西郷・糟屋西郡郷を源頼朝より拝領する。 |
出典:『吾妻鏡』同年月日条 |