慶長18年 1613年 11月25日 |
徳川家康が鷹狩をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 11月26日 |
越谷(武蔵国)にて徳川家康が鷹狩をする。27日、葛西に移ることを表明する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 11月27日 |
卯刻(5-7時)、徳川家康が越谷(武蔵国)を発つ。鷹狩をする。申刻(15-17時)、葛西に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 11月28日 |
細川忠興が江戸(武蔵国)に向かうべく小倉(豊前国)を出立する。 |
出典:『細川家記』13「忠興」7 |
慶長18年 1613年 11月28日 |
徳川家康が鷹狩をする。29日に江戸城(武蔵国)に帰城する旨を表明する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 11月29日 |
卯刻(5-7時)、徳川家康が葛西を発つ。道中、鷹狩をする。未刻(13-15時)、江戸城(武蔵国)に帰城する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月1日 |
江戸城(武蔵国)南御殿にて徳川家康と徳川秀忠が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、南光坊天海と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、源誉存応が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月2日 |
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康と密談する。未刻(13-15時)、秀忠は江戸城本城に戻る。家康の駿府城(駿河国)帰還につき、供奉の物が秀忠に暇乞いをし、秀忠より黄金・呉服を賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月3日 |
夜明けに徳川秀忠が江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康に暇乞いをする。 辰刻(7-9時)、家康が江戸城を発つ。稲毛に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月5日 |
徳川家康が鷹狩より戻る。 夜、本多正信が家康への暇乞いとして江戸(武蔵国)より稲毛に赴く。 来春の諸大名普請にあたり、金森可重については、名古屋城(尾張国)の普請を引き受けているので、諸大名普請からは除外するようにと家康が指示する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月6日 |
徳川家康が中原(相模国)に到着する。 板倉勝重よりの飛脚が家康のもとに到着し、堺政所の細川喜三郎の死去が伝えられる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月7日 |
中原(相模国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として板倉重宗が到着し、肴を家康に進上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月13日 |
本願寺教如が大坂に下向する。 |
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長18年 1613年 12月13日 |
辰刻(7-9時)、徳川家康が、急遽、中原(相模国)を発ち、申刻(15-17時)、稲毛(武蔵国)に到着する。1月に土気(上総国)・東金(上総国)にて鷹狩をするためで、徳川秀忠が迎えとして、夜、小杉に赴き家康と対面する。対面後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月14日 |
午刻(11-13時)、徳川家康が江戸城(武蔵国)「新城」に帰城する。徳川秀忠が家康と対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月19日 |
徳川家康・秀忠父子が、キリスト教徒を追放すべく、大久保忠隣に京都へ赴くよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月19日 |
卯刻(5-7時)、後陽成天皇の禁裏の移徙が行われる。 |
出典:『駿府記』同年月22日条 |
慶長18年 1613年 12月25日 |
徳川家康が越谷(武蔵国)にて鷹狩をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月26日 |
細川忠興が江戸(武蔵国)に到着する。 |
出典:『細川家記』13「忠興」7 |
慶長18年 1613年 12月26日 |
キリスト教徒追放のため京都へ赴くことを命じられた大久保忠隣が、用意のため、江戸(武蔵国)を発し、小田原城(相模国)に帰城する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月27日 |
細川忠興が徳川秀忠のもとへ礼に赴く。 |
出典:『細川家記』13「忠興」7 |
慶長18年 1613年 12月28日 |
徳川家康が節分により越谷(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。徳川秀忠が対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長18年 1613年 12月29日 |
徳川家康のもとに赴き、歳暮の礼として織田有楽斎が銀50枚・小袖5領を、細川忠興が銀300枚・小袖10領を、鍋島勝茂が銀300枚・小袖10領を、山内忠義が銀200枚・小袖10領を、堀尾忠晴が銀100枚・小袖5領を進上する。奥平忠政、松平忠明、石川主殿助、本多美濃守、松平和泉守、本多康紀、松平主殿助が家康に進物を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7 |
慶長18年 1613年 12月30日 |
諸大名が徳川秀忠に歳暮の礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7 |
慶長18年 1613年 -月-日 |
米原綱寛が死去する。 |
出典:- |
慶長18年 1613年 -月-日 |
柳沢元吉が徳川家康に小姓として仕える。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項 |
慶長19年 1614年 1月1日 |
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が父・家康のもとに礼に赴く。江戸城(武蔵国)南殿にて対面する。秀忠は太刀(銘 守家)・馬代銀100枚を家康に献上する。披露は大沢基宿。奥の座敷で酒宴が行われ、酌を松平正久が、御加を水野金十郎、陪膳を金森左兵衛・北見長五郎・内藤掃部助がつとめる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7 |
慶長19年 1614年 1月5日 |
徳川家康が江戸城(武蔵国)本丸に赴く。祝儀の後、南殿に赴き、能3番が開催される。徳川国松が勤める。家康、徳川秀忠、江、女中衆が簾中より見物する。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7 |
慶長19年 1614年 1月5日 |
大久保忠隣が京都(山城国)のキリスト教徒退治のため、小田原城(相模国)を発つ。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 1月6日 |
本願寺教如が大坂に下向する。 |
出典:『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |