和暦 |
西暦 |
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年齢 |
事項 |
出典 |
- | - | - | - | - | 下間頼慶が生まれる。 | - |
永正10年 | 1513 | - | - | - | 子・真頼が生まれる。 | - |
享禄5年 | 1532 | 5 | 19 | - | 畠山義堯が木沢長政の飯盛山城(河内国)を攻める。 | 『細川両家記』 |
享禄5年 | 1532 | 6 | 15 | - | 畠山義堯が木沢長政の籠る飯盛山城(河内国)を攻撃していたところ、細川晴元が長政を救援すべく、本願寺証如に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し飯盛山城の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。 | 『細川両家記』 |
享禄5年 | 1532 | 6 | 20 | - | 細川晴元が本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所である堺の顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。 | 『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条 |
天文1年 | 1532 | 8 | 4 | - | 細川晴元と本願寺証如が敵対関係となる。(『私』) 木沢長政の衆が一向一揆勢と喧嘩し殺害される。長政はその報復として、堺の東にあるあさかの道場の近郷を放火する。 | 『私心記』同年月日条、『祇園執行日記』同年月日条、『細川両家記』 |
天文1年 | 1532 | 8 | 5 | - | 一向一揆勢が細川晴元の居る堺北荘に攻め入るが、木沢長政の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。 池田城(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。 | 『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事 |
天文1年 | 1532 | 8 | 8 | - | 堺に居る細川晴元が大坂本願寺に軍勢を遣わすも一向一揆勢が細川勢を退ける。 | 『経厚法印日記』同年月日条 |
天文1年 | 1532 | 8 | 23 | - | 法華衆および六角定頼の軍勢30000-40000が山科本願寺を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。 | 『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条 |
天文1年 | 1532 | 8 | 24 | - | 早朝より山科本願寺が法華衆や六角定頼勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。 定頼は夜に帰陣する。 | 『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』 |
天文6年 | 1537 | 1 | 11 | - | 六角定頼への使者として下間頼慶、横田能登、横田出雲を遣わす。定頼には書状・馬・太刀(代30000疋)を、六角家重臣の平井・進藤に200貫を贈る。 | 『私心記』同年月日条 |
天文7年 | 1538 | 9 | 14 | - | 大坂本願寺寺内の六町の番屋に火付・盗人・博打を発見し報告してきた者には代物(褒美)を遣わす旨を周知させる制札を発給する。下間頼慶が花押を捺す。 | 『天文日記』同年月日条 |
天文9年 | 1540 | 2 | 18 | - | 本願寺証如が三好利長(長慶)に音信を遣わす。下間頼慶が添状を発給する。 | (天文9年)2月18日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-134号『天文書札案』) |
天文9年 | 1540 | 2 | 24 | - | 本願寺証如が三好長慶(利長)に音信を遣わす。下間頼慶が添状を発給する。 | (天文9年)2月24日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-135号『天文書札案』) |
天文10年 | 1541 | 1 | 4 | - | 佳例として本願寺証如が下間頼慶の宿所を訪れる。朝飯として汁4、菜12、菓子9種にてもてなす。、順興寺実従、実淳、福一が相伴する。その後、雑煮あり。 証如が帰宅した後、扇2本、杉原を証如に贈る。 頼慶が風呂を焼く。 | 『天文日記』同年月日条 |
天文10年 | 1541 | 5 | 18 | - | 在京中の梅戸高実に本願寺証如が天文7年6月19日の答礼として書状・太刀1腰・馬1疋を贈る。使者は麻生。下間頼慶が添状を発給する。 | 『天文日記』同年月日条 |
天文10年 | 1541 | 6 | 11 | - | 午刻前(23時前)、下間頼慶が死去する。 | 『天文日記』同年月日条 |