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城 郭 史
木曽福島城(信濃国)
きそふくしまじょう
築 城 年
-
築 城 者
木曽義康
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
慶長3年 1598年
別 称
-
現 所 在 地
〒397-0001
長野県木曽郡木曽町福島
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
木曽義康、
木曽義昌
木曽福島城(信濃国) 年表
天正10年 1582年 2月1日
木曽義昌
が
織田信長
に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、
菅屋長頼
が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月2日
木曽義昌
の謀叛につき
武田勝頼
が武田信豊とともに
新府城
(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月14日
織田信忠
が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より
森長可
・
団忠正
が木曽峠、梨子野峠を越え
飯田城
(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月20日
武田勝頼
が
上杉景勝
に謀叛を起した
木曽義昌
の討伐に向かい苦戦している旨を伝えるとともに援軍を依頼する書状を発給する。
出典:(天正10年)2月20日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3660号、上杉家文書)
天正10年 1582年 2月28日
武田勝頼
・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月2日
織田信忠
が仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、
森長可
・
団忠正
・毛利秀頼・
川尻秀隆
・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月20日
木曽義昌
が
織田信長
のもとに礼に訪れる。馬2疋を進上する。
出典:『信長公記』巻15(15)「木曽義政出仕の事」
天正10年 1582年 3月29日
織田信長
が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を
川尻秀隆
に、駿河国を
徳川家康
に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を
滝川一益
に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を
森長可
に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を
木曽義昌
に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を
穴山梅雪
に、岩村(美濃国)を
団忠正
に、金山米田島(美濃国)は
森成利
に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」
天正18年 1590年 7月22日
細川幽斎
が木曽福島(信濃国)に到着する。
出典:『東国陣道記』
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