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石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
谷村城(甲斐国)
やむらじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒402-0053
山梨県都留市上谷1丁目1
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
小山田信有、小山田信茂、
鳥居元忠
谷村城(甲斐国) 年表
天文10年 1541年 2月12日
小山田信有
が死去する。
出典:-
永禄8年 1565年 8月20日
小山田信有
が死去する。
出典:-
天正10年 1582年 2月1日
木曽義昌
が
織田信長
に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、
菅屋長頼
が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月2日
木曽義昌
の謀叛につき
武田勝頼
が武田信豊とともに
新府城
(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月14日
織田信忠
が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より
森長可
・
団忠正
が木曽峠、梨子野峠を越え
飯田城
(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
天正10年 1582年 2月28日
武田勝頼
・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月2日
織田信忠
が仁科盛信の籠る
高遠城
(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、
森長可
・
団忠正
・毛利秀頼・
川尻秀隆
・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」
天正10年 1582年 3月7日
織田信忠
が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」
天正10年 1582年 3月11日
織田信忠
が甲斐国にて
武田勝頼
の所在を捜索し、所在地を突き止めた
滝川一益
が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、
秋山親久
、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、
土屋昌恒
も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」
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