人 物 史

鳥居元忠 とりい もとただ
生 没 年天文8年(1539)-慶長5年(1600)8/1
出 身三河国碧海郡渡郷幼 名-
別 称彦右衛門
法 名-
戒 名嘉岳宗慶龍見院、清流院殿淵室長源大居士
鳥居忠吉-
兄 弟 姉 妹鳥居忠宗、本翁意伯、鳥居元忠鳥居忠広、女(三宅政貞の妻)
配 偶 者松平家広の娘、馬場信春の娘
鳥居康忠、鳥居忠政、鳥居成次、鳥居忠勝、鳥居忠頼、鳥居忠昌、娘(土岐定政の妻)、娘(戸沢政盛の妻)
官 位-
役 職-
城 郭岩殿山城(甲斐国)、谷村城(甲斐国)、矢作城(下総国)、岩ヶ崎城(下総国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ鳥居元忠の関連文化財
鳥居元忠の家臣
史料にみえる鳥居元忠の呼称
鳥居元忠 年表
天文8年 1539年 -月-日 1歳
鳥居元忠が生まれる。
出典:-

天文12年 1543年 12月26日 5歳
徳川家康が生まれる。酒井正親が御胞刀役をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項

天文18年 1549年 3月6日 11歳
松平広忠が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 17歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 20歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 22歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄3年 1560年 5月23日 22歳
徳川家康大高城(尾張国)より撤退する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」の項

永禄9年 1566年 -月-日 28歳
子・忠政が三河国碧海郡渡郷にて生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 32歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 35歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 37歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 37歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正7年 1579年 11月4日 41歳
誤って狼煙をあげた鳥居元忠の同心が成敗される。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月11日 44歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 44歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月3日 44歳
徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項

天正10年 1582年 7月9日 44歳
徳川家康が府中(甲斐国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正10年 1582年 8月10日 44歳
徳川家康鳥居元忠・水野勝成を古府に残し、新府(甲斐国)に陣を移す。大野村に松平清宗・三宅康貞を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項

天正10年 1582年 8月12日 44歳
上口山(甲斐国)にて北条氏忠と鳥居元忠・水野勝成・松平清宗・三宅康貞が戦い、鳥居等が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項

天正12年 1584年 4月9日 46歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正13年 1585年 閏8月2日 47歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、青木信安山高信直[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、柳沢信俊[大久保忠世勢]、米倉忠継[大久保忠世勢]、米倉信継[大久保忠世勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同169「米倉信継」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同250「保科正直」の項

天正14年 1586年 9月-日 48歳
徳川家康駿府城(駿河国)を居城とする。板倉勝重を町奉行とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉勝重」の項

天正14年 1586年 10月27日 48歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正18年 1590年 5月20日 52歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 52歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 52歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 7月6日 52歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 54歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄5年 1596年 -月-日 58歳
榊原信次が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第102「榊原元次」の項

慶長1年 1596年 10月27日 58歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 60歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月16日 62歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月17日 62歳
徳川家康伏見城(山城国)の留守居として、鳥居元忠松平家忠内藤家長松平近正を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

慶長5年 1600年 6月18日 62歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 7月1日 62歳
石田三成が蟄居中の佐和山城(近江国)を出て大坂城(摂津国)に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家の連署で発給する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月2日 62歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月19日 62歳
伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月20日 62歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月22日 62歳
石田三成鍋島勝茂等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項

慶長5年 1600年 7月24日 62歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月27日 62歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。なかなか落城しないため、「大鉄砲」を用いる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月29日 62歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。島津義弘が城を極楽橋より攻めるも、留守居の鳥居元忠に退けられる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月30日 62歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。寅刻(3-5時)、松丸を落とす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 8月1日 62歳
石田三成等が伏見城(山城国)が攻め落とす。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

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