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総年表


大永1年 1521年 -月-日
今井信俊が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第151「今井信俊」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第151「今井信俊」の項

大永1年 1521年 -月-日
津金胤時が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤時」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第173「津金胤時」の項

永正18年 1521年 2月15日
北野社勧進につき、将軍 足利義稙が奉加帳に判を据える。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 3月7日
夜、足利義稙が京都を密かに抜け出し、南荘に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 3月8日
将軍 足利義稙が蓄電する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 3月10日
夜、足利義稙淡路国に入る。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 3月26日
足利義稙相国寺にて常徳院(足利義尚)の33回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

永正18年 1521年 3月28日
右近衛大将となる。
出典:『系図纂要』「久我」

永正18年 1521年 4月1日
六角定頼北野社に馬・太刀を寄進する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 4月5日
六角定頼の4月1日の北野社への馬・太刀の寄進の返礼として、北野社より太刀が送られる。
出典:『北野社家日記』同年月日条

永正18年 1521年 6月-日
足利亀王丸が上洛するため、播磨国を立つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月1日
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「三条」

永正18年 1521年 7月1日
左大弁となる。
出典:『系図纂要』「日野」

永正18年 1521年 7月6日
申刻(15-17時)、足利亀王丸が播磨国より上洛する。桂(山城国)にて細川高国伊勢貞忠が義晴を迎える。義晴は上京の岩栖院に入る。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『公卿補任』大永2年、『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月10日
足利亀王丸が参内する。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月27日
足利亀王丸が義晴と称す。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 8月7日
蓮誓が死去する。
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」

永正18年 1521年 8月23日
従五位上に叙される。
出典:『公卿補任』天文15年

大永1年 1521年 8月23日
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永1年 1521年 10月16日
左近衛大将に任官。
出典:『系図纂要』「近衛」

大永1年 1521年 10月23日
足利義稙淡路国よりに移る。
出典:『実隆公記』同年月日条

大永1年 1521年 11月2日
海蓮が醍醐寺の鐘を鋳造する。
出典:『大』9-13 大永元年10/10条

大永1年 1521年 11月3日
武田信玄が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 10月-日
福島正成率いる今川勢15000が富士の根方川より甲斐国に侵攻する。
出典:『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責ノ事」

大永1年 1521年 11月25日
左馬頭となる。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 11月28日
細川高国が室町幕府管領となる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永1年 1521年 12月13日
武蔵守となる。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 12月23日
飯田河原(甲斐国)にて福島正成と武田信虎が戦い、信虎が勝利する。
出典:『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責ノ事」

大永1年 1521年 12月24日
元服する。上京の岩栖院より三条の御所に移る。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永2年? 1522?年 -月-日
柴田勝家が生まれる。
出典:-

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