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   地 名 の 歴 史

上京(山城国) かみぎょう
初 見-
山城国
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荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
上京(山城国) 年表
和暦 西暦 事項 出典
明応9年1500728上京で火事が起こり、15000間が焼失する。『厳助往年記』同年月日条
永正17年152055巳刻(9-11時)、細川高国の軍勢が鴨川を渡り、三好之長勢が布陣する上京に攻め入る。高国は本陣を川崎の天神に置き、午刻(11-13時)には等持寺の東南にて高国と之長が戦う。戦中、讃岐勢の香川・安富・久米・河村が高国方に寝返り、亥刻(21-23時)、之長・長光長則は京都より逃亡し、高国が勝利する。『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
永正17年1520510曇華院に匿われていた三好長光長則細川高国に降伏する。両名は高国と対面した後、上京の安達の宿所に置かれる。『厳助往年記』同年月日条、『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」
永正18年152176申刻(15-17時)、足利亀王丸が播磨国より上洛する。桂(山城国)にて細川高国伊勢貞忠が義晴を迎える。義晴は上京の岩栖院に入る。『北野社家日記』同年月日条、『公卿補任』大永2年、『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」
大永1年15211224元服する。上京の岩栖院より三条の御所に移る。『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」
享禄2年1529316柳本賢治が供御料所の丹波国桐野・河内村の旱魃にともない先例にのっとり、洛中洛外の米屋に供御米を進納するよう上京下京米屋当座中に命じる。(享禄2年)3月16日付柳本賢治書状案(『蜷川家文書』3巻-502号)
天文1年153284山村正次が上京下京の一揆勢を率いて打ちまわる。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532811山村正次が上京下京の日蓮衆徒・町人を率いて東山を打ちまわる。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532812上京下京の日蓮衆徒が思い思いに軍勢を各所に遣わす。『祇園執行日記』同年月日条
天文1年1532926一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が山崎(山城国)にて戦っているのをうけ、上京の町衆が集会のため革堂の鐘を、下京の町衆が六角堂の鐘を鳴らす。『二水記』同年月日条
天文2年1533426上京下京の日蓮衆徒が、京都に滞在している細川晴元勢に交じり大坂本願寺攻めに出陣する。『祇園執行日記』同年月日条
天文2年1533514雨のため鴨川の水量が増し、洛中への通行が不能となる。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号
天文3年1534715京都町人が踊をする。『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)
天文6年15371213室町幕府が京都北口(岩倉・花園・長谷)での柴公事銭徴収を永正13年6月2日付室町幕府下知状に準じ停止する。柴公事銭を徴収する者がいたならば町人が捕らえるよう指示する。連署者は諏訪晴長・松田頼康松田晴秀同年月日付室町幕府奉行人連署下知状案(『蜷川家文書』3-524号)
天文7年1538419四条東洞院にて梅若大夫の勧進猿楽が行われる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538624室町片岡辻が焼ける。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539725上京下京での徳政停止につき、伊勢貞孝が政所公人・開闔雑色をもって触れさせる。これにつき上京下京の土倉が5荷3種を貞孝に進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539824上京下京の地下人から申請のあった徳政停止について六角定頼と相談し、定頼より徳政停止で問題なしとの返答を受けたことから、松田晴秀に徳政停止を施行するよう伝える。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539109室町通立売角の材木屋が全焼する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391230上京下京の地下人20名の連判状をもって幕府に願い出ていた納銭方の員数増員が認められる。これにつき、礼として、地下人納銭方の佐野、中山、野洲井光助伊勢貞孝のもとを訪れ300疋を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文13年154479大洪水により京中の人馬が流出する。『厳助往年記』同年月日条
天文18年15497-三好長慶が村雲町の浄福寺に三好勢の乱妨狼藉、謂れのない課役の賦課、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。天文18年7月日付三好長慶禁制(「浄福寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-244号)
天文21年1552222上京衆・下京衆が土御門法華堂跡地で勧進猿楽を興行する。『言継卿記』同年月日条
弘治2年155610-三好長慶が禁裏の四方の築地等を修築するため、洛中の上京下京に棟別銭を賦課する。奉行は結城進斎。『厳助往年記』同年月条
弘治3年1557428夜、上京で火事が起こり、立売町など400間が焼失する。近衛邸も炎上する。『厳助往年記』同年月日条
永禄1年1558519三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄8年15651220三好義継清玉上京芝薬師西町阿弥陀寺境内の芥川分二季地子銭200疋(2貫文)を永代に渡り寄進する。永禄8年12月20日付三好義継書下(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1220号「阿弥陀寺文書」)
永禄12年1569121足利義昭の居所として織田信長が勘解由小路室町にあった足利義輝の御所(武衛御所)を再興すべく自らが奉行となって普請を始める。石積みを西側より始める。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より石を集める。『言継卿記』同年月日条
永禄12年1569126織田信長が、足利義輝が戦死した御所(武衛御所)に、足利義昭の御殿を建立することを、同地に建立されていた真如堂蓮光院に伝える。真如堂には替地として一条の西の地(広さ4丁町)の寄進と所領の安堵、さらには西岡(山城国)のうち知徳庵、知徳庵道場分を新たに寄進、課役の賦課と寄宿停止を伝える。永禄12年1月26日付織田信長朱印状(「真正極楽寺文書」『織田信長文書の研究』上巻147号)
永禄12年156927勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。『言継卿記』同年月日条
永禄12年156929勘解由小路室町城の南の岸が崩れ人夫7、8人が死亡する。普請人数は1日数千人という。『言継卿記』同年月日条
永禄12年1569414織田信長が築城した春日室町第に足利義昭本圀寺より移る。『言継卿記』同年月日条
永禄13年1570230申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条
元亀1年1570624夜、盧山寺(山城国)の西大宮で火災が発生し、一町分が焼ける。『言継卿記』同年月25日条
元亀2年1571725上京町衆が足利義昭のもとを訪れ踊りを披露する。1番目に一条室町の衆が雪躅鷺を、2番目に西陣(21町)が田栽・座頭を、3番目に立売町が薦僧を、4番目に絹屋町が小川鐘鋳・道明寺・西王母・黒主を舞う。次いで桜の馬場で踊りを披露し、さらに伏見殿の門前にて披露する。見物の衆は10万人を超えたという。『言継卿記』同年月日条
元亀4年157344丑刻(1-3時)、織田信長が西陣(山城国)を放火する。足軽を洛中に乱入させ放火。上京の二条より北を悉く焼き討ちにする。等持寺を本陣とする。
吉田兼見が等持寺にいる信長のもとへ陣中見舞いに訪れ、強飯、菓子1両種が贈られる。兼見より禁裏の近くまで類火が及んでおり放火を停止するよう求められる。もし、禁裏に火が及ぶ場合は、吉田社への正親町天皇の臨幸を考えている旨を伝えられる。それに対し信長は、兼見の気遣いを称し、村井貞勝を警固につけることを約す。また、兼見に舂木を添え、禁裏に害が及ばないようにすることを伝える。
『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(4)「公方様御構取巻きの上にて御和談の事」
天正4年1576212立売上風呂町の宗珍という僧庵にて山科言経葉室長教がイリントという物の論語講釈を聴く。『言経卿記』同年月日条
天正4年1576313因幡堂において上京下京の地下人が猿楽勧進を催す。大夫は太刀屋。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576522京都にて洪水が発生し、通路の通行ができなくなる。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576716村井貞勝が「洛中踊」を許可する。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576717夜、「京中踊」が行われる。『兼見卿記』同年月日条
天正4年1576815上京にて慈照寺による手猿楽6番が行われる。『兼見卿記』同年月日条・8月14日条
天正6年1578512・13大雨により洪水が発生し、舟橋町が流され溺死者が出る。『信長公記』巻11(8)「洪水の事」
天正7年157933山科言経薄諸光兄弟が、父・言継の遺体を花開院に葬送する。阿弥陀寺長老の源蓮が引導を勤める。『言経卿記』同年月日条
天正7年157952正親町木屋薬師堂西隣で火災が発生し、烏丸町西等で家17軒が焼失する。『言経卿記』同年月日条
天正7年15791216辰刻(7-9時)、織田信長荒木村重の妻子・兄弟を上京一条辻から室町通を通って六条河原まで引き回し、六条河原にて処刑する。奉行は不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」
天正9年1581228織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事
天正10年158222山科言経が父・言継の忌日につき花開院、誓願寺に参詣する。『言経卿記』同年月日条
天正10年1582412安楽光院小路の塩風呂に山科言経、大炊御門経頼、冷泉為満阿茶丸が入る。『言経卿記』同年月日条
天正16年1588512大仏殿建立につき石壇が積み上げられ、盛土が行われる。また洛中上京下京の衆に餅・酒が下行する。『多聞院日記』同年月日条
天正16年1588515豊臣秀吉の命により三十三間堂の北に大仏殿の地築がなる。また京の町衆による風流踊や金春・観世座の能も行われる。『言経卿記』『多聞院日記』同年月日条
天正16年1588516豊臣秀吉大仏殿の屋敷に赴く。上京下京の町人に踊りを命じる。『北野日記』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)
文禄4年1595121豊臣秀吉の病につき上京にて御祈祷として七釜湯立て行われる。『左大史孝亮記』同年月日条
文禄5年1596閏712大地震(慶長大地震)により多くの死者が出る。『左大史孝亮記』同年月日条
慶長6年1601816徳川家康伏見城(山城国)より上京の屋敷に入る。『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)
慶長9年1604815豊国神社の祭礼が行われ、上京下京の地下人が風流踊を催す。上京よりは300名、下京よりは200人が参加する。『慶長日件録』同年月日条
慶長19年1614111上京下京(山城国)が二条城(山城国)にいる徳川家康に銀1000両を献上する。『駿府記』同年月日条
慶長19年16141210京都町衆が徳川家康に鉛1000斤を献上する。『駿府記』同年月日条
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