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石高から軍役算出
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人 物 史
今村慶満
いまむら よしみつ
生 没 年
?-?
出 身
山城国
幼 名
-
別 称
源介
法 名
-
戒 名
-
父
-
母
-
兄 弟 姉 妹
今村慶満
配 偶 者
-
子
-
官 位
紀伊守
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
今村慶満 年表
- -年 -月-日
今村慶満
が生まれる。
出典:-
天文16年 1547年 10月6日
細川国慶が畠山政国に加勢すべく内野西ノ京(山城国)に300余人を率い現れる。
国慶に応戦するため
六角定頼
は多賀豊高に軍勢200余を付けて遣わす。
京都合戦にて
三好宗三
と細川国慶、小泉秀清、
今村慶満
が戦い、宗三が勝利する。国慶は戦死する。
出典:天文16年10月9日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-202号)
天文18年 1549年 8月27日
禁裏御料所内蔵寮料陸路河上四方八口率分役所について、
今村慶満
が押領していることを
山科言継
が
三好長慶
に訴える。
出典:『言継卿記』同年月日条、天文18年8月27日付山科言継書状写(『言継卿記』『戦国遺文 三好氏編』第1巻-251・252号)
天文18年 1549年 10月-日
今村慶満
、
松永長頼
が進士氏が知行していた石田・小栗栖の一部を知行する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条
天文19年 1550年 2月22日
山科言継
が
今村慶満
の率分関違乱を
三好長慶
・
三好長逸
・狩野信濃守に訴える書状を送る。また長慶には勅筆詩歌3枚を、長逸には勅筆詩歌2枚を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条
天文19年 1550年 3月7日
今村慶満
、小泉氏が四条に野伏せりをしかけてきた
細川晴元
足軽と戦う。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条
天文19年 1550年 10月-日
今村慶満
、
松永長頼
が厳助より小栗栖村の知行(押領)を訴えられる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年 1551年 1月20日
今村慶満
、
松永長頼
が北小栗栖(山城国)にて醍醐寺領の者6名を搦め取る。
出典:『厳助往年記』同年月日条
天文20年 1551年 2月28日
六角義賢
の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、
三好長慶
は
伊勢貞孝
、
今村慶満
を遣わすも六角勢は撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文22年 1553年 8月1日
三好長慶
が
芥川山城
(摂津国)への押さえの軍勢を残し、河内国・和泉国・大和国・摂津国・紀伊国の軍勢を25000を率い上洛する。長慶の上洛にあわせ、
安見宗房
が上洛する。
足利勢が籠る霊山城(山城国)に
今村慶満
を遣わし攻める。今村勢は、一族の今村源七郎ら死傷者を出すが、城を守る松田監物を自害に追い込み城を落とす。また、長慶は船岡山(山城国)に陣取っていた
足利義藤
に
十河一存
率いる河内国・紀伊国の諸勢10000を遣わし攻撃を加え、多くを捕らえる。義藤は北山(山城国)に逃れる。
細川晴元
は一戦に及ばず撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大樹都落之事」
永禄9年 1566年 3月26日
今村慶満
が木幡・
大津
・
坂本
の関所を押領していることについて
山科言継
が
三好長逸
・
三好康長
に訴える。
出典:『言継卿記』同年3/27条
- -年 -月-日
今村慶満
が死去する。
出典:-
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