人 物 史

三好長逸 みよし ながやす
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称孫四郎、長縁、北斎
法 名宗功
戒 名-
三好長則-
兄 弟 姉 妹三好長逸
配 偶 者-
三好長虎
官 位日向守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○中西裕樹「三好義継と三好三人衆」(今谷明・天野忠幸監修『三好長慶』宮帯出版社、2013年)
関 連 デ ー タ史料にみえる三好長逸の呼称
三好長逸 年表
- -年 -月-日 
三好長逸が生まれる。
出典:-

天文18年 1549年 5月2日 
三宅城(摂津国)の香西元成三好長逸の守る芥川山城(摂津国)を攻撃するも敗れる。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文19年 1550年 2月22日 
山科言継今村慶満の率分関違乱を三好長慶三好長逸・狩野信濃守に訴える書状を送る。また長慶には勅筆詩歌3枚を、長逸には勅筆詩歌2枚を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 7月14日 
三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 10月20日 
三好長逸十河一存、芥川らが御所の東から五条に陣取る。
六角定頼が東山山上に軍勢20000をもって陣取る。六角勢のうち永原衆が細川勢2000とともに鴨河原にて野伏をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月19日 
摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月20日 
三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 11月21日 
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月24日 
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 1月-日 
三好長逸が醍醐寺の庭を見物し、厳助より酒をすすめられる。
出典:『厳助往年記』同年月条

天文20年 1551年 3月14日 
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文21年 1552年 1月28日 
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文23年 1554年 9月1日 
三好長逸が三木次郎と交戦中の有馬源二郎のもとに援軍として播磨国衆を率いて赴き三木勢を破る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 9月12日 
三好長逸が帰陣する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文24年 1555年 9月27日 
三好長逸が波多野晴通の籠る八上城(丹波国)攻めるが、晴通が長逸を退ける。
出典:『足利季世記』巻5「毛利合戦之事」

永禄1年 1558年 5月19日 
三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。
出典:『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月6日 
三好長逸松永長頼が700余名を引き連れ勝軍地蔵城(山城国)に談合のため向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月8日 
足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月9日 
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄3年 1560年 4月8日 
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄4年 1561年 3月18日 
十河一存が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 3月30日 
未刻(13-15時)、足利義輝三好義興邸を訪れる。安威藤備安東泰職石谷光政小林藤宗進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱三好長慶松永久秀・長逸・三好宗渭三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号)

永禄5年 1562年 3月5日 
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 5月24日 
三好義興安宅冬康松永久秀三好長逸三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。
出典:『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」

永禄6年 1563年 8月25日 
三好義興が黄疽という病により芥川山城(摂津国)にて死去する。義興の死により三好義継三好長慶の後継となる。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄7年 1564年 5月9日 
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄7年 1564年 7月24日 
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄8年 1565年 5月18日 
知恩寺にいる三好長逸革堂にいる三好義長のもとに山科言継勧修寺晴豊が礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月19日 
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月21日 
三好長逸が禁裏にお見舞いとして赴く。足利義輝殺害を朝廷に説明する。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 7月4日 
三好長逸が禁裏に天王寺別当職について申事をする。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月2日 
内藤宗勝(松永長頼)赤井直正の籠る黒井城(丹波国)を攻めるも、戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月3日条

永禄8年 1565年 11月16日 
夕方、三好長逸三好宗渭岩成友通飯盛山城(河内国)を攻め、長勝軒、金山駿河守を討ち取る。三好義継松永久秀と手切れするよう訴える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 11月-日 
法隆寺に、三好勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、寄宿について停止する旨の禁制を三好長逸、加地久勝、岩成友通三好宗渭の連署で発給する。
出典:永禄8年11月日付三好長逸等連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1214号「法隆寺文書」)

永禄8年 1565年 12月21日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が河内国より乾、脇に軍勢3000余りをもって攻め入る。松永久秀が長逸らに応戦するため多聞山城(大和国)より軍勢を出す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月-日 
三好長逸岩成友通三好宗渭が連署で、大山崎(山城国)に、三好三人衆勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課、国質所質、荏胡麻油商買の諸職について停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄8年12月日付三好三人衆禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1228号「離宮八幡宮文書」)

永禄9年 1566年 2月17日 
上芝の合戦で三好義継三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興と松永久秀畠山高政安見宗房が戦い、三好三人衆勢が勝利する。敗れた高政、安見宗房に逃れる。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条、『言継卿記』同年月18日条

永禄9年 1566年 2月18日 
三好長逸三好宗渭岩成友通高屋城(河内国)にて上芝の合戦で討ち取った敵の首実検を行う。
出典:『多聞院日記』同年月19日条

永禄9年 1566年 3月23日 
三好長逸が上洛する。
出典:『言継卿記』同年月24日条

永禄9年 1566年 3月26日 
今村慶満が木幡・大津坂本の関所を押領していることについて山科言継三好長逸三好康長に訴える。
出典:『言継卿記』同年3/27条

永禄9年 1566年 4月4日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢5000を率い鳥見荘に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月10日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢4000を率い奈良(大和国)に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月11日 
三好長逸三好宗渭岩成友通、筒井順興が軍勢6000-7000で奈良(大和国)近辺の五本松まで攻め入る。松永久秀多聞山城(大和国)に籠城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月21日 
矢島(近江国)にて一乗院覚慶が還俗し足利義秋と名乗る。左馬頭に任じられる。朝廷へは伝奏を経ず吉田兼右を通じて報告をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 4月23日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が陣払いをする。筒井平城(大和国)を攻めるため大安寺南辺に引く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月8日 
三好長逸が芥川(摂津国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月18日 
松永久秀が大和国より河内国へ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月19日 
大和国より河内国へ出陣したとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 5月24日 
松永久秀が河内国に向かったのを受け、筒井平城(大和国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通が城攻め用の小屋を破却し河内国に向かう。
久秀は河内国で敗北し軍勢を多く失う。
出典:『多聞院日記』同年月日・25日条、『言継卿記』同年月日阿城

永禄9年 1566年 5月30日 
にいた松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通が攻める。久秀は逃亡する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月11日 
足利義栄の先陣として、篠原長房率いる軍勢25000が兵庫(摂津)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月16日 
山科言継三好長逸三好康長・七条左近にでの合戦の勝利を祝す書状を調える。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 6月23日 
篠原長房越水城(摂津国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 6月24日 
未刻(13-15時)、真観寺(河内国)にて三好長慶の葬儀を三好義継三好長逸が執り行う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条・同年月26日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄9年 1566年 7月13日 
篠原長房越水城(摂津国)を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 7月14日 
三好長逸岩成友通が大軍を率いて上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 7月17日 
三好長逸が禁裏に参内し樽代100疋、美物3種、雁2羽、鮎1折を進上する。小御所の庭にて御酒を賜る。また山科言継のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 7月18日 
山科言継三好長逸のもとに礼に訪れ太刀を贈る。奏者は磯与右衛門尉。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 7月21日 
三好長逸が土御門内裏を巡る。内裏の修理を命じるためかと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 閏8月9日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢1000余を片岡(大和国)に入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄9年 1566年 9月23日 
足利義栄越水城(摂津国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「阿波公方義栄摂州御渡海之事」

永禄9年 1566年 11月7日 
三好長逸三好宗渭岩成友通山科言継に内蔵寮領陸路河上四方八口率分高荷諸商売公事役銭を安堵する。
出典:『言継卿記』同年月11日条

永禄9年 1566年 12月8日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が将軍に擁立する足利義栄越水城(摂津国)から総持寺(摂津国)に移る。
禁裏に米を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 12月16日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が上洛し禁裏へ米30俵を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 12月20日 
本満寺を旅宿としていた三好長逸のもとに山科言継が礼として訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 12月21日 
三好長逸三好宗渭六角義賢勢と談合のため坂本(近江国)に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 2月16日 
三好義継にて宿所を替える。河内国にて義継が松永久秀と同心したと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月18日条

永禄10年 1567年 2月28日 
三好義継三好長逸岩成友通三好宗渭が「悪逆無道」を構え、「大忠」の松永久秀を討たんとしていることにるいて、久秀に味方することを宣言するとともに、味方してくれた椿井政定、古市播磨守に謝意を示す。
出典:(永禄10年)2月28日付三好義継書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1322号「小林氏所蔵文書」、同1323号「宮坂氏所蔵文書」)

永禄10年 1567年 4月6日 
三好義継松永久秀より信貴山城(大和国)に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『足利季世記』巻6「大仏殿焼亡之事」、『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月12日 
三好義継多聞山城(大和国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻41「三好義誥与松永一味付東大寺炎焼之事」

永禄10年 1567年 4月18日 
三好長逸岩成友通三好宗渭が軍勢10000を率い奈良(大和国)に陣取る。松永久秀の在城する多聞山城(大和国)に攻め寄せる。三人衆の勢は、古市、鹿野薗を放火し白毫寺辺りに野陣する。三好義継、久秀・久通父子は大力、辛碓、東大寺南大門に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 4月24日 
三好長逸岩成友通三好宗渭筒井順慶が奈良(大和国)に攻め入りそんき寺から大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 -月-日 
岩成友通がそんき寺を城にする。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月2日 
筒井順慶の手引きにて岩成友通の率いる軍勢10000が東大寺大仏殿、念仏堂、二月堂、知足院に陣取る。
松永久秀東大寺戒壇院に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄10年 1567年 5月15日 
篠原長房池田勝正松永久秀を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭、高畠が東大寺二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため三好義継、久秀・久通父子が多聞山城(大和国)、興福寺東大寺戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月17日 
池田勝正が西方寺(大和国)に、三好宗渭が天満山より西ノ坂に、岩成友通が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、筒井順慶が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月18日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が東山より多聞山城(大和国)に攻め入るも松永久秀が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が東大寺戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、池田勝正勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条

永禄10年 1567年 5月23日 
朝、池田勝正がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 5月24日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が法輪院に入る。これを受け、松永久秀が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 6月4日 
夜、筒井順慶興福寺寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄10年 1567年 6月5日 
筒井順慶が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月13日 
寅刻から卯半刻(3-6時)まで松永久秀が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 7月23日 
東大寺にて三好長逸三好宗渭岩成友通松永久秀が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 7月27日 
松永久秀合力として柳本弾正忠・波多野・赤井ら兵4000が丹波より西岡(京都)に侵攻し西岡衆と戦う。萬石・下山田を焼く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2日 
松永久秀が大黒ノ尾に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月2頃日 
松永久秀合力として根来寺衆8000が和泉国に侵攻する。また、大和国の井戸、郡山(大和国)の辰巳も久秀に加勢する。
出典:『言継卿記』同年月5日条

永禄10年 1567年 8月16日 
午刻(11-13時)、松永久秀方の松浦、松永彦十郎が三好長逸三好宗渭岩成友通方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月21日 
池田勝正と超昇寺が戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 8月23日 
飯盛山城(河内国)の松山安芸守が、三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀に寝返り、河内国の各所を焼く。
出典:『言継卿記』同年月25日条

永禄10年 1567年 8月26日 
岩成友通、中村為三の軍勢が河内国に向かう。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月5日 
三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房飯盛山城(河内国)に降伏するよう交渉する。
出典:『多聞院日記』同年月6日条

永禄10年 1567年 9月6日 
飯盛山城(河内国)が三好長逸三好宗渭岩成友通篠原長房に降伏すると報告がある。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 9月22日 
田原の坂上氏が松永久通に寝返る。
松永久秀飯盛山城(河内国)に軍勢500を入れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月10日 
松永久秀三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が陣取る東大寺大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条

永禄10年 1567年 10月21日 
飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口がに逃亡する。同城は三好長逸篠原長房が請け取り入城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月26日 
池田勝正が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月2日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢と松永久秀の軍勢が春日社大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月1日 
津田城が三好長逸三好宗渭岩成友通方から松永久秀方に寝返る。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月2日 
三好千鶴に着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 1月7日 
三好義継多聞山城(大和国)から津田城へ移る。
出典:『足利季世記』巻6「松山安芸守カ事」

永禄11年 1568年 1月17日 
西之城(大和国)の番替えとして三好長逸勢と池田勝正勢が入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月8日 
足利義栄の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月21日 
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月25日 
三好義継が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月-日 
三好長逸岩成友通三好宗渭が連署で、東福寺および同門前境内に三好勢の濫妨・狼藉、山林竹木の伐採、寄宿、矢銭・兵粮米の賦課、放火を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年3月日付三好三人衆連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1396号「東福寺文書」)

永禄11年 1568年 4月18日 
東大寺大仏殿再興について、三好長逸が洛中洛外諸寺諸山への勧進を勧める書状を清玉に発給する。
出典:(永禄11年)4月18日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1399号「阿弥陀時文書」)

永禄11年 1568年 4月晦日 
三好長逸が、稲葉一鉄よりの音信として斎藤利三が使者として上洛し長逸に十文字鎌を贈ってくれたことについて返書を出し謝意を示すとともに織田信長への執り成しを依頼する。
出典:(永禄11年)4月晦日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1400号「保阪氏所蔵文書」)

永禄11年 1568年 5月7日 
東大寺大仏殿再興について、正親町天皇より三好長逸に奉加に応じるように依頼する綸旨が発給される。
出典:(永禄11年)5月7日付正親町天皇綸旨案(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1402号)

永禄11年 1568年 5月19日 
篠原長房三好宗渭が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた筒井順慶が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 5月29日 
篠原長房三好宗渭が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 6月29日 
三好康長信貴山城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日 
マメ山に布陣していた中村為三と筒井順慶勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月25日 
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月18日 
松永久秀方の富野城(山城国)が宇治田原の衛門兵衛に攻め落とされる。富野城(山城国)の落城を聴いた多聞院英俊は、久秀がいよいよ滅亡するのではと評す。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

永禄11年 1568年 9月2日 
三好康長が西京(大和国)に布陣する。興福寺からの訴えにより奈良には布陣せず。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月3日 
三好康長多聞山城(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。筒井順慶が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月4日 
河内国の三好勢が東大寺辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月5日 
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月7日 
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月12日 
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月13日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城に入る。
出典:『多聞院日記』同年月14日条

永禄11年 1568年 9月14日 
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月16日 
三好宗渭、香西の率いる軍勢3000が木津平城(山城国)を退き西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月15日 
松永久秀が豊田城(大和国)を攻め落とす。(『多』)
村上武吉に三好長逸三好宗渭岩成友通が悪逆無道を構え「都鄙乱世」にしているので急ぎ討ち果たすこと、武吉が児島(備前)に松永方に味方するよう命じてくれたことを謝す書状を送る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、(永禄11年)10月15日付松永久秀書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1428号「屋代島村上文書」)

永禄11年 1568年 10月15日 
松永久秀が豊田城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 12月28日 
松永久秀方の池田丹後、寺町の軍勢100が籠る家原城(和泉国)を三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が攻撃し落とす。池田丹後、寺町は討死する。三好勢の十河嶋介、松浦、篠原玄蕃の討死が噂される。
出典:『多聞院日記』永禄12年1月5日条

永禄12年 1569年 1月1日 
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺を攻める。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元政」の項

永禄12年 1569年 1月6日 
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
三好勢:三好長逸、三好宗渭、岩成友通、小笠原信定(戦死)。
足利義昭勢:足利義昭[大将]、柳沢元政明智光秀、伊丹親興、池田勝正、三好義継、細川藤孝。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原信定」の項

永禄12年 1569年 1月10日 
三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた織田信長が、この日、入洛する。救援の軍勢に松永久秀等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月19日 
足利義昭の近江国への出陣が、18日の池田勝正の家内の内紛と三好長逸三好宗渭岩成友通が攻め入ってくるとの噂があったことから延期となる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 
三好義継池田勝正が上洛する。
三好長逸岩成友通池田城(摂津国)に入城したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 6月29日 
三好長逸三好宗渭岩成友通等が吹田(摂津国)あたりに到着したと京都(山城国)にて噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月30日 
奉公衆が摂津国に向けて京都(山城国)より出陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月25日 
酉刻(17-19時)、松永久秀久通父子が信貴山城(大和国)に出陣する。三好長逸三好宗渭岩成友通が河内国に攻め入ったと噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月27日 
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月22日 
織田信長が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、天王寺、ウリウノ、に陣取る。松永久秀が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日

元亀1年 1570年 8月25日 
福島(摂津国)に陣取る三好長逸三好康長岩成友通を討つため、織田信長が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月26日 
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 8月28日 
織田信長天王寺に陣取る。織田勢は信長、畠山昭高三好義継松永久秀等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、和田惟政は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月3日 
足利義昭が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月8日 
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 5月30日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が畠山高政・遊佐の籠る高屋城(河内国)に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 6月11日 
高屋城(河内国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日12条

- -年 -月-日 
三好長逸が死去する。
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