人 物 史

松永長頼 まつなが ながより
生 没 年?-永禄8年(1565)8/2
出 身-幼 名-
別 称甚介、内藤宗勝
法 名蓬雲軒、法雲軒(『言継卿記』)
戒 名-
--
兄 弟 姉 妹松永久秀松永長頼
配 偶 者内藤国貞の娘
内藤貞勝、内藤如庵、ジュリア、内藤貞成
官 位備前守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献松永長頼に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる松永長頼の呼称
松永長頼 年表
- -年 -月-日 
松永長頼が生まれる。
出典:-

天文18年 1549年 10月20日 
松永長頼が山城国両岡内天龍寺領長井荘の下司職に補任されたことをうけ同寺出官禅師に請状を発給する。
出典:天文18年10月20日付松永長頼書状(「天龍寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-256号)

天文18年 1549年 10月-日 
今村慶満松永長頼が進士氏が知行していた石田・小栗栖の一部を知行する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文19年 1550年 10月-日 
今村慶満松永長頼が厳助より小栗栖村の知行(押領)を訴えられる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文19年 1550年 11月19日 
摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月20日 
三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 11月21日 
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月24日 
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年? 1550?年 -月-日 
子・内藤如庵が生まれる。
出典:-

天文20年 1551年 1月20日 
今村慶満松永長頼が北小栗栖(山城国)にて醍醐寺領の者6名を搦め取る。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文20年 1551年 2月7日 
志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」

天文20年 1551年 3月14日 
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 7月14日 
細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」

天文21年 1552年 10月-日 
石田村・小栗栖村(山城国)にいた松永長頼の配下が進士等の幕府勢に追い出される。
出典:『厳助往年記』同年月条

天文22年 1553年 9月3日 
三好長慶の命により松永長頼が八上城(丹波国)攻めに赴く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 9月18日 
松永長頼が八上城(丹波国)の合戦で波多野晴通に敗れ八木城(丹波国)より退く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

弘治2年 1556年 4月-日 
松永長頼が宇治橋を新たに架ける。
出典:『厳助往年記』同年月日条

弘治2年 1556年 5月-日 
松永長頼が宇津氏を討つため丹波国に入部する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄1年 1558年 5月19日 
三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。
出典:『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月6日 
三好長逸松永長頼が700余名を引き連れ勝軍地蔵城(山城国)に談合のため向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月8日 
足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月9日 
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄2年 1559年 6月-日 
松永長頼山崎(山城国)に陣取る。
出典:『厳助往年記』同年月条

永禄2年 1559年 7月21日 
河内国の安見宗房を攻める三好長慶の加勢として、松永蓬雲軒が別所氏、明石氏、衣笠氏、真島氏、有馬氏等とともに軍勢20000を率い摂津国欠郡に駆け付ける。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄3年 1560年 4月8日 
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄4年 1561年 3月18日 
十河一存が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 6月-日 
松永長頼・粟屋氏が若狭国に入国する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月2日 
内藤宗勝(松永長頼)赤井直正の籠る黒井城(丹波国)を攻めるも、戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月3日条

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