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寿永3年・治承8年 | 1184 | 1 | 21 | 粟津(近江国)にて源範頼・源義経と源義仲が戦い、義仲は戦死する。 | - |
文保3年 | 1319 | 4 | 25 | 4/18、園城寺に勅使が派遣され供養が行われたことに立腹した延暦寺は園城寺に向かい大津(近江国)の在家や園城寺内の堂舎・仏閣・僧坊を一宇も残さず焼き払う。 | 『文保三年記』同年月日条 |
文明7年 | 1475 | 12 | 17 | この頃、大津-下京間の路次が塞がれている状態。 | 『実隆公記』同年月日条 |
天文11年 | 1542 | 3 | 28 | 足利義晴・菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。 細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。 | 『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
天文15年 | 1546 | 12 | 18 | 足利義藤の坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 20 | 三好長慶が松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条 |
天文19年 | 1550 | 11 | 21 | 足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元は坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 | 1551 | 2 | 27 | 三好長慶勢、伊勢貞孝が大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。 | 『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条 |
永禄9年 | 1566 | 3 | 26 | 今村慶満が木幡・大津・坂本の関所を押領していることについて山科言継が三好長逸・三好康長に訴える。 | 『言継卿記』同年3/27条 |
永禄11年 | 1568 | 9 | 24 | 織田信長が大津(近江国)に入る。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
永禄11年 | 1568 | 9 | 25 | 織田信長が清水寺に入る。足利義昭が大津(近江国)に入る。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
元亀1年 | 1570 | 9 | 19 | 浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。 | 『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」 |
元亀4年 | 1573 | 3 | 8 | 足利義昭と織田信長の不和の噂について、島田秀満が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに岐阜城(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 3 | 29 | 織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝、荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀、蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。 足利義昭は籠城する。 吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。 兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。 | 『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」 |
元亀4年 | 1573 | 7 | 6 | 織田信長勢の先勢が大津(近江国)に着陣する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正10年 | 1582 | 4 | 24 | 青蓮院尊朝、妙法院常胤が安土城(近江国)に向け出発。大津(近江国)より乗船して向かう。 | 『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』) |
天正10年 | 1582 | 6 | 3 | 明智光秀が坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正10年 | 1582 | 6 | 14 | 羽柴秀吉が大津(近江国)に入る。 | 『多聞院日記』同年月日条 |
天正17年 | 1589 | 11 | 5 | 北野社東門の材木が大津(近江国)より北野社におおよそ到着する。 | 『北野社家日記』同年月日条 |
文禄2年 | 1593 | 12 | 10 | 豊臣秀吉が大津(近江国)に到着する。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 2 | 17 | 豊臣秀吉が山内一豊を折檻し朝鮮攻めに参陣するよう命じる。 秀吉は伏見城(山城国)より大津(近江国)に赴く。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 2 | 19 | 豊臣秀吉が大津(近江国)より伏見城(山城国)に帰る。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 3 | 25 | 巳刻(9-11時)、豊臣秀吉が大津(近江国)へ下向する。 | 『駒井日記』同年月日条 |
文禄3年 | 1594 | 3 | 27 | 豊臣秀吉が大津(近江国)より伏見城(山城国)に帰城する。 | 『駒井日記』同年月日条 |
慶長2年 | 1597 | 7 | 17 | 文禄5年閏7月13日の大地震により大破した大仏にかわり大仏殿に安置する善光寺阿弥陀如来(関寺阿弥陀堂に安置)が大津(近江国)に到着する。応其は大津から大仏殿に遷座するにあたり諸門跡の行列を編成の差配をする。 大仏殿に到着後、新造の宝塔に善光寺阿弥陀如来を安置する。 | 『義演准后日記』同年月日条 |
慶長2年 | 1597 | 7 | 18 | 応其の差配のもと善光寺阿弥陀如来が大津(近江国)から大仏殿に遷座する。その行列には、天台宗・真言宗の僧侶各々50口を先頭に応其、警護の浅野長政が続き、さらに照高院道澄・妙法院常胤・三宝院義演・聖護院興意・梶井宮応胤・曼殊院覚円といった諸門跡が続く。行列を一目見ようと貴賤が群集し、伏見の大名衆は桟敷を構えて行列を眺めたという。 大仏殿到着後は宝塔に善光寺阿弥陀如来が安置される。 この日より、「大仏」を改め「善光寺如来堂」と号す(『鹿苑日録』)。 西笑承兌は大仏は織田信長、大仏を倒した地震は明智光秀、善光寺如来は豊臣秀吉になぞらえる。 | 『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 6 | 18 | 徳川家康が江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。 | 『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」 |
慶長5年 | 1600 | 6 | 27 | 教如が大津(近江国)に赴く。 | 『御堂日記』(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長5年 | 1600 | 9 | 3 | 京極高次が石田三成方より徳川家康方に寝返り大津城(近江国)に籠城する。 | (慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73) |
慶長5年 | 1600 | 9 | 11 | 大津城(近江国)の京極高次を攻めるため立花宗茂、毛利秀包が大坂(摂津国)より出陣する。 | 『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年) |
慶長5年 | 1600 | 9 | 12 | 末次元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。 | 『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年) |
慶長5年 | 1600 | 9 | 12 | 末次元康、毛利秀包、立花宗茂、立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。 | 『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 13 | 末次元康、毛利秀包、立花宗茂、立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)本丸を攻める。 | 慶長5年9月18日付毛利秀包感状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号75)、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 14 | 徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。 京極高次の大津城(近江国)が落ちる。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 20 | 徳川家康が草津(近江国)を発し、大津城(近江国)に入る。大津城に入った家康のもとに教如が見舞いに訪れる。 子・秀忠が草津に到着する。夜、秀忠は大津城の家康のもとを訪れるが、すぐに草津に戻る。 | 『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『当代記』巻3同年月日条 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 23 | 大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政、本多忠勝、福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎が請け取る。 田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 25 | 徳川家康が大津(近江国)にて、子・秀忠と対面する。伏見城(山城国)に入る。 増田長盛の死罪を免じ、所領を没収する。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 27 | 徳川家康が大津(近江国)を出て淀(山城国)に宿泊する。 | 『関原始末記』 |
慶長5年 | 1600 | 9 | 27 | 徳川家康が藤森(山城国)にて酒井重忠・忠利兄弟に大津城(近江国)の守備を命じる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第61「酒井忠利」能項 |
慶長9年 | 1604 | 5 | 8 | 東本願寺御影堂の石築に大津衆(門徒衆)がやってくる。 | 『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長9年 | 1604 | 5 | 12 | 福島正則が本願寺教如のもとを訪れる。教如は正則との会見後、上洛する松平忠吉を迎えるべく大津(近江国)に赴き、忠吉を迎える。教如はその日のうちに東本願寺に戻る。 | 『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長9年 | 1604 | 11 | 18 | 本願寺教如が伏見に入り、その後、大津(近江国)に下向する。 | 『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長10年 | 1605 | 2 | 24 | 上洛する結城秀康を迎えるため、大津(近江国)に下向する。 | 『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長11年 | 1606 | 11 | 13 | 本願寺教如が大津(近江国)に下向する。 | 『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長11年 | 1606 | 11 | 15 | 本願寺教如が大津(近江国)より東本願寺に帰寺する。 | 『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長12年 | 1607 | 11 | 17 | 本願寺教如が宇治(山城国)に赴き、その足で大津(近江国)へ下向する。 | 『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長13年 | 1608 | 11 | 15 | 本願寺教如が大津(近江国)に下向する。 | 『御堂日記』(略抜)同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』) |
慶長19年 | 1614 | 11 | 10 | 徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊、徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。 | 『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』 |
慶長20年 | 1615 | 4 | 18 | 徳川家康が水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。 徳川義俊、徳川頼宣が京都に到着する。 | 『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条 |