人 物 史

十河一存 そごう かずまさ
生 没 年天文1年(1532)-永禄4年(1561)3/18
出 身-幼 名-
別 称又四郎、三好長正
法 名-
戒 名靭翁宗活公禅定門、靭翁活公禅定門
三好元長
十河景滋[養父]
-
兄 弟 姉 妹三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存、野口冬長
配 偶 者九条稙通の娘
三好義継、十河存之
官 位左衛門尉、左衛門督、民部大輔、讃岐守
役 職-
城 郭十河城(讃岐国)、岸和田城(和泉国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる十河一存の呼称
十河一存 年表
天文1年 1532年 -月-日 1歳
十河一存が生まれる。
出典:-

享禄5年 1532年 6月20日 1歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、父・三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 7月29日 1歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文17年 1548年 8月11日 17歳
十河一存三好宗三を攻めるべく河内十七ヶ所に入る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 6月11日 18歳
早朝、三好宗三が榎並城(河内国)を出て江口に陣取る。これを受け三好長慶は、安宅冬康十河一存を別府川に布陣させ三宅城(摂津国)との連絡を絶つ。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文18年 1549年 6月23日 18歳
三好長慶が中島城(摂津国)にて軍評定を開く。十河一存細川晴元のいる三宅城(河内国)の攻撃を主張するが、主討ちになるとして長慶が退ける。
出典:『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」

天文18年 1549年 6月24日 18歳
十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。
出典:『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、

天文18年 1549年 7月-日 18歳
十河一存大山崎(山城国)に十河勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付十河一存禁制(「離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-249号)

天文19年 1550年 7月14日 19歳
三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 8月23日 19歳
十河一存が大和国に入国すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文19年 1550年 8月28日 19歳
十河一存の大和国入部について、一存の兄である三好長慶遊佐長教の関係が良好であることと、筒井との関係が良好であることから延期となる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文19年 1550年 10月20日 19歳
三好長逸十河一存、芥川らが御所の東から五条に陣取る。
六角定頼が東山山上に軍勢20000をもって陣取る。六角勢のうち永原衆が細川勢2000とともに鴨河原にて野伏をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月19日 19歳
摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月20日 19歳
三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 11月21日 19歳
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月24日 19歳
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月14日 20歳
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文21年 1552年 12月14日 21歳
十河一存東福寺・同門前・糠辻に十河勢の乱暴狼藉、寄宿、兵糧米賦課、竹木伐採を禁止する禁制を発給する。
出典:天文21年12月14日付十河一存禁制(『東福寺文書 一』38号)

天文21年 1552年 -月-日 21歳
摂津国川端より帰陣した十河一存のもとに本願寺証如が3種5荷を贈る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文22年 1553年 8月1日 22歳
三好長慶芥川山城(摂津国)への押さえの軍勢を残し、河内国・和泉国・大和国・摂津国・紀伊国の軍勢を25000を率い上洛する。長慶の上洛にあわせ、安見宗房が上洛する。
足利勢が籠る霊山城(山城国)に今村慶満を遣わし攻める。今村勢は、一族の今村源七郎ら死傷者を出すが、城を守る松田監物を自害に追い込み城を落とす。また、長慶は船岡山(山城国)に陣取っていた足利義藤十河一存率いる河内国・紀伊国の諸勢10000を遣わし攻撃を加え、多くを捕らえる。義藤は北山(山城国)に逃れる。細川晴元は一戦に及ばず撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

弘治1年 1555年 10月23日 24歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 27歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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永禄1年 1558年 9月18日 27歳
にて三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存の4兄弟が集まる。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄2年 1559年 5月-日 28歳
根来寺衆・河内国衆の安見宗房三好長慶と対立したため十河一存が討伐に赴く。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 5月29日 28歳
十河一存根来寺衆が戦い、根来寺衆が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄3年 1560年 4月8日 29歳
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄4年 1561年 3月18日 30歳
十河一存が死去する。
出典:-

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