人 物 史

六角義賢 ろっかく よしかた
生 没 年大永1年(1521)-慶長3年(1598)3/14
出 身近江国幼 名-
別 称-
法 名承禎
戒 名-
六角定頼呉服前
兄 弟 姉 妹六角義賢、娘(細川晴元の妻)、娘(土岐頼芸の妻)、娘(北畠具教の妻)、娘(武田信豊の妻)、如春尼[養女]
配 偶 者畠山義総の娘
六角義治、六角義定、娘(畠山義綱の妻)
官 位左京大夫
役 職近江国守護
城 郭観音寺城(近江国)
参 考 文 献六角義賢に関する参考文献
関 連 デ ー タ六角義賢の関連文化財
史料にみえる六角義賢の呼称
六角義賢 年表
大永1年 1521年 -月-日 1歳
六角義賢が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 1歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 8歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 12歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文3年 1534年 1月29日 14歳
吉田兼右六角定頼のもとに赴く。定頼は2、3日酒を大いに飲み酔った状態であるという。兼右には六角義賢が応対する。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)

天文3年 1534年 9月3日 14歳
足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文8年 1539年 10月3日 19歳
父・定頼が上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条

天文8年 1539年 10月4日 19歳
父・定頼が幕府に出頭する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月7日 19歳
六角義賢が上洛する。供は池田、種村、小倉、河合、馬上。晩に幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条

天文8年 1539年 10月10日 19歳
細川晴元六角定頼義賢父子を自邸に招く。晴元が催した観世能に伊勢貞孝も出席する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月18日 19歳
足利義晴六角定頼のもとを訪れる。観世能が催される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月21日 19歳
伊勢貞孝六角定頼のもとを訪れる。
六角義賢が左京大夫に任じられる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月13日 19歳
六角定頼義賢父子が参内する。
定頼・義賢父子が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝は観世能にてもてなす。藤宰相、大舘晴光、上野与三郎、細川高久海老名高助、永田景弘、飯川彦九郎、祐乗坊、蜷川親俊、青地、下笠、三雲、蒲生定秀が相伴する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月22日 19歳
伊勢貞孝六角定頼のもとに赴く。貞孝は定頼に緞子、盆、太刀を贈る。六角義賢が貞孝に太刀を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月29日 19歳
六角定頼義賢父子が参内する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文14年 1545年 -月-日 25歳
子・義治が生まれる。
出典:-

天文15年 1546年 12月18日 26歳
足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文16年 1547年 7月12日 27歳
細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」

天文16年 1547年 7月19日 27歳
細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月29日 27歳
足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条

天文18年 1549年 6月25日 29歳
六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月27日 29歳
24日の江口の合戦で三好長慶に敗れた細川晴元が、足利義晴義藤と合流し、近衛晴嗣聖護院道増、大覚寺義俊、三宝院義尭、久我晴通とともに京都を脱し慈照寺に逗留する。晴元は東山葛岡に陣取る。
義晴、義藤、晴元、六角義賢が長慶への対応を協議する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日 29歳
足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文20年 1551年 2月7日 31歳
志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」

天文20年 1551年 2月22日 31歳
近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元坂本(近江国)から対岸に渡航する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月24日 31歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月26日 31歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月27日 31歳
三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 2月28日 31歳
六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶伊勢貞孝今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 3月2日 31歳
三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月7日 31歳
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。
出典:『言継卿記』同年月8日条

天文20年 1551年 3月14日 31歳
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 3月15日 31歳
香西元成・柳本・宇津・三好政勝三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月16日 31歳
三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。
三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 7月14日 31歳
細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」

天文21年 1552年 1月2日 32歳
父・定頼が死去する。
出典:-

天文21年 1552年 1月28日 32歳
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文23年 1554年 6月7日 34歳
六角義賢本願寺証如の当年の礼への返礼として贈った3種5荷が、証如のもとに到着する。義賢の家臣・平井より鮒鮨2桶(数百)が証如に贈られ、この日到着する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 6月10日 34歳
本願寺証如が7日の返事として六角義賢に書状と礼として絞20具(浅黄入り)を贈る。義賢の家臣・平井に鮒鮨2桶(数百)の返しとして絞10具を贈る。いずれも下間頼資の添状をつけ、平井の使者に託す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 6月23日 34歳
六角義賢本願寺証如に10日の義賢宛の絞20具の贈答に対する書状を送る。
出典:『天文日記』同年月日条

弘治1年 1555年 10月23日 35歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月20日 36歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治2年 1556年 6月5日 36歳
足利義輝六角義賢を介して本願寺顕如に一向一揆と対立している朝倉義景と和睦するよう命じる使者を遣わす。
出典:『私心記』同年月日条

弘治4年 1558年 2月28日 38歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 6月9日 38歳
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 11月27日 38歳
六角義賢の仲介により足利義輝三好長慶が和睦する。これにつき、義輝が勝軍地蔵城(山城国)より相国寺に移ったことをうけ、長慶・慶興父子が上洛し、義輝に出仕する。
三好長慶芥川山城に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄4年 1561年 7月28日 41歳
六角義賢細川晴元の次男を擁立し、畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と示し合わせて勝軍地蔵城(山城国)にて軍勢10000程で蜂起する。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)、『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 7月29日 41歳
六角義賢の軍勢1000が東山(山城国)に出張る。三好長慶勢は出勢せず。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 7月30日 41歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 8月19日 41歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月20日 41歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月26日 41歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月28日 41歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。小泉山城守が戦死する。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 -月-日 41歳
勝軍地蔵城(山城国)に入った永原安芸守率いる六角勢10000に対処すべく京都の三好勢の総大将として三好義興が梅津(山城国)に在陣する。松永久秀が西院(山城国)に在陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 11月24日 41歳
三好義興松永久秀が勝軍地蔵城(山城国)に攻め寄せ六角義賢と交戦する。三好勢は城を落とすことができずに撤退する。この戦いで、六角方は永原安芸守が、三好方は三郷主膳助が戦死する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 -月-日 41歳
六角義賢が布陣する神楽岡(山城国)に攻め寄せた松永久秀を破る。撤退する久秀を追撃しようとするが蒲生定秀に制止され追撃をやめる。
出典:『足利季世記』巻5「神楽岡合戦並当流弓ノ根本之事」

永禄5年 1562年 3月5日 42歳
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 42歳
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 -月-日 42歳
六角家の家督を六角義賢が、子・義弼に譲る。
出典:『足利季世記』巻6「江州動乱之事」

永禄6年 1563年 3月1日 43歳
細川晴元が普門寺(摂津国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 10月-日 43歳
六角義賢義治父子が居城・観音寺城(近江国)を家臣に奪われる。
出典:『厳助往年記』同年条

永禄7年 1564年 3月22日 44歳
六角承禎が軍勢14000をもって佐和山城(近江国)を包囲する。
出典:『江濃記』「佐々木承禎出張事」

永禄7年 1564年 7月24日 44歳
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄8年 1565年 5月19日 45歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 12月21日 46歳
三好長逸三好宗渭六角義賢勢と談合のため坂本(近江国)に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 8月7日 48歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 9月7日 48歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 48歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月10日 48歳
織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月11日 48歳
織田信長が近江国にて六角承禎と交戦する。一旦、美濃に引き上げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 48歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月14日 48歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月19日 48歳
近江国おける六角承禎織田信長の戦いが、信長の勝利と大和国にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 50歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 5月10日 50歳
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月12日 50歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月13日 50歳
織田信長が永原(近江国)に到着する。永原城(近江国)に佐久間信盛を、長光寺城(近江国)に柴田勝家を置く。安土城(近江国)に中川重政を在番させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月19日 50歳
永原城(近江国)にいる織田信長のもとに見舞いに赴いていた日乗村井貞勝が京都(山城国)に戻る。信長と六角義賢との和議が不調に終わる。信長は美濃国に向け、永原城を発ったとされる。その道中、信長は甲津畑(近江国)にて鉄砲4挺にて狙撃される。
義賢・義治父子は石部城(近江国)を軍勢20000で攻める。
出典:『言継卿記』同年月日・22日条

元亀1年 1570年 6月4日 50歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 50歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 11月22日 50歳
織田信長六角承禎義治父子と和睦する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 9月12日 51歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 53歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 53歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 53歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 4月13日 54歳
六角承禎が石部城(近江国)を退城する。織田信長は同城に佐久間信盛の軍勢を入れる。
出典:『信長公記』巻7(5)佐々木承禎石部城退散の事

天正10年 1582年 6月2日 62歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正13年 1585年 3月9日 65歳
大坂(摂津国)より孝蔵主が貝塚本願寺を訪れる。如春尼の屋敷にて素麺、酒などによりもてなし、六角承禎の宿所に宿泊する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 72歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 76歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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慶長3年 1598年 3月14日 78歳
六角承禎が死去する。
出典:-

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