人 物 史

大井昌次 おおい まさつぐ
生 没 年天文15年(1546)-慶長15年(1610)10/15
出 身-幼 名-
別 称彦三郎、庄兵衛、昌久
法 名全悦
戒 名-
大井虎昌-
兄 弟 姉 妹大井昌次、女(油川信貞の妻)
配 偶 者-
大井昌義、娘(宇都野正信の妻)、大井正守
官 位監物
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
大井昌次 年表
天文15年 1546年 -月-日 1歳
大井昌次が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第152「大井昌次」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第152「大井昌次」の項

弘治1年 1555年 10月23日 10歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 13歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 25歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 4月12日 28歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 28歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正7年 1579年 12月4日 34歳
父・虎昌が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第152「大井虎昌」の項

天正10年 1582年 3月11日 37歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 37歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 -月-日 39歳
子・昌義が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第152「大井昌義」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第152「大井昌義」の項

文禄1年 1592年 12月8日 47歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 51歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 53歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 58歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 60歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長15年 1610年 10月15日 65歳
大井昌次が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第152「大井昌次」の項

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