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事項 |
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- | - | - | - | - | 福富秀勝が生まれる。 | - |
元亀2年 | 1571 | 9 | 12 | - | 織田信長が延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。 | 『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条 |
天正3年 | 1575 | 5 | 20 | - | 織田信長が酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。 | 『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」 |
天正3年 | 1575 | 5 | 21 | - | 辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。 酒井忠次勢:忠次、酒井家次、松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠、松平清宗、小栗忠政[雨宮家次討取]。 武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。 忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長・徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。 織田勢:佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政、大島光義。 徳川勢:石川数正、大久保忠世、大久保忠佐、大須賀康高、鳥居元忠、平岩親吉、松平信一、松平忠正、松平康安、松平康元、酒井正親、榊原康政、本多忠勝、渥美友勝、岩瀬氏定(戦死)、加藤正次。 武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊、津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。 | 『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項 |
天正5年 | 1577 | 3 | 2 | - | 織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政、不破光治、丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。 | 『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3 |
天正5年 | 1577 | 3 | - | - | 土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。 | 『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」 |
天正5年 | 1577 | 10 | 4 | - | 織田信長が松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を安土(近江国)より京都に移す。5日処刑されると噂される。矢部家定、福富秀勝が移送を担当する。 | 『兼見卿記』同年月日条・同年月5日条 |
天正5年 | 1577 | 10 | 5 | - | 織田信長が松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を京都六条河原にて処刑する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 10 | 21 | - | 荒木村重が織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑、明智光秀、万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。 | 『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 10 | - | 織田信長が荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。 | (天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」 |
天正6年 | 1578 | 11 | 24 | - | 茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然・福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。 清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。 | 『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条 |
天正6年 | 1578 | 12 | 8 | - | 織田信長が荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政・万見重元・菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。 | 『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条 |
天正6年 | 1578 | 12 | 11 | - | 織田信長が有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。 塚口郷の砦に丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山重友・神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包・滝川一益・北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興・元助・池田古新を、原田郷の砦に中川清秀・古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通・氏家直昌・安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。 播磨国に、羽柴秀吉・佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。 | 『信長公記』巻11 同年月日条 |
天正7年 | 1579 | 4 | 29 | - | 織田信長が有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝・忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興・元助・池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。 | 『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」 |
天正7年 | 1579 | 6 | 20 | - | 伊丹(摂津国)に在陣中の滝川一益、蜂屋頼隆、武藤舜秀、丹羽長秀、福富秀勝に、織田信長がハイタカミモト・小男鷹2を贈る。使者は青山与三。 | 『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 2 | - | 荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。 | 『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 12 | - | 織田信忠が有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友と中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。 | 『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 21 | - | 織田信長が荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。 | 『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 22 | - | 荒木村重が有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。 | 『当代記』巻2同年月日条 |
天正7年 | 1579 | 9 | 24 | - | 織田信長が荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。 | 『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」 |
天正7年 | 1579 | 9 | 27 | - | 織田信長が有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。 | 『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」 |
天正7年 | 1579 | 10 | 15 | - | 早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。 | 『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」 |
天正7年 | 1579 | 11 | 20 | - | 荒木村重の有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。 | 『多聞院日記』同年月22日条 |
天正10年 | 1582 | 3 | 5 | - | 織田信長が武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。 | 『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 8 | - | 織田信長が岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。 | 『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 9 | - | 織田信長が金山(美濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 10 | - | 織田信長が高野(美濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 11 | - | 織田信長が岩村(美濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 13 | - | 織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 14 | - | 織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。 | 『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 15 | - | 織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。 | 『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 17 | - | 織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 18 | - | 織田信長が高遠城(信濃国)に移る。 | 『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 19 | - | 織田信長、津田信澄、菅屋長頼、矢部家定、堀秀政、長谷川秀一、福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼、蒲生氏郷、細川忠興、池田元助、蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光、高山重友、中川清秀、明智光秀、丹羽長秀、筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。 | 『信長公記』巻15(14)「人数備への事」 |
天正10年 | 1582 | 3 | 24 | - | 織田信長が武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。 | 『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」 |
天正10年 | 1582 | 6 | 2 | - | 本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。 信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。 信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。 | 『多聞院日記』同年月日・3日条 |