人 物 史

楠木正成 くすのき まさしげ
生 没 年永仁2年(1294)-延元1年(1336)5/25
出 身河内国赤坂村幼 名多聞丸
別 称兵衛尉
法 名-
戒 名-
楠木正遠橘盛仲の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者久子(南江正忠の娘)
楠木正行、楠木正時、楠木正儀
官 位検非違使、左衛門少尉
役 職河内国守護、和泉国守護、摂津国守護
城 郭上赤坂城(河内国)、下赤坂城(河内国)、千早城(河内国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ楠木正成の関連文化財
楠木正成 年表
永仁2年 1294年 -月-日 1歳
楠木正成が生まれる。
出典:-

正安1年 1299年 4月25日 6歳
「永仁」より「正安」に年号が改まる。
出典:-

乾元1年 1302年 11月21日 9歳
「正安」より「乾元」に年号が改まる。
出典:-

嘉元1年 1303年 8月5日 10歳
「乾元」より「嘉元」に年号が改まる。
出典:-

徳治1年 1306年 12月14日 13歳
「嘉元」より「徳治」に年号が改まる。
出典:-

延慶1年 1308年 10月9日 15歳
「徳治」より「延慶」に年号が改まる。
出典:-

応長1年 1311年 4月28日 18歳
「延慶」より「応長」に年号が改まる。
出典:-

正和1年 1312年 3月20日 19歳
「応長」より「正和」に年号が改まる。
出典:-

文保1年 1317年 2月3日 24歳
「正和」より「文保」に年号が改まる。
出典:-

元応1年 1319年 4月28日 26歳
「文保」より「元応」に年号が改まる。
出典:-

元亨1年 1321年 2月23日 28歳
「元応」より「元亨」に年号が改まる。
出典:-

正中1年 1324年 12月9日 31歳
「元亨」より「正中」に年号が改まる。
出典:-

嘉暦1年 1326年 4月26日 31歳
「正中」より「嘉暦」に年号が改まる。
出典:-

元徳1年 1329年 8月29日 36歳
「嘉暦」より「元徳」に年号が改まる。
出典:-

元徳3年 1331年 4月24日 38歳
後醍醐天皇が笠置城(山城国)に行幸する。
出典:『関城書裏書』

元弘1年 1331年 8月9日 38歳
「元徳」より「元弘」に年号が改まる。
出典:-

元弘1年 1331年 9月27日 38歳
幕府を倒幕するため挙兵した後醍醐天皇の籠る笠置城(山城国)を攻めるため幕府軍が発向する。
出典:『関城書裏書』

元弘2年 1332年 3月7日 39歳
後醍醐天皇が配所・隠岐国に赴くべく、京都を出立する。千葉五郎左衛門・佐々木備中判官が道中を警固する。
出典:『関城書裏書』

正慶1年 1332年 4月28日 39歳
「元弘」より「正慶」に年号が改まる。
出典:『桜雲記』巻之上

元弘2年 1332年 4月-日 39歳
楠木正成下赤坂城(河内国)を攻め、同城を落とす。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 5月-日 39歳
楠木正成天王寺に陣取る。正成討伐のため六波羅より出陣した須田・高橋と正成が戦い、正成が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 7月-日 39歳
楠木正成と宇都宮公綱が戦う。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 8月-日 39歳
赤松円心が苔縄城(播磨国)にて後醍醐天皇に味方するとして挙兵する。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 8月-日 39歳
楠木正成千早城(河内国)を築く。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 9月-日 39歳
護良親王楠木正成等を討伐するための北条貞直・北条時治・二階堂道薀率いる幕府軍が上洛する。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 2月-日 40歳
幕府軍が赤坂城(河内国)を攻め落とす。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 2月-日 40歳
幕府軍が護良親王の拠る吉野城(大和国)を攻め落とす。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月24日 40歳
後醍醐天皇が配流地の隠岐国を脱出し、伯耆国稲津浦に移る。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月26日 40歳
後醍醐天皇が片見(伯耆国)に移る。後醍醐天皇に供奉していた成田が名和長高の館に赴き、長高に後醍醐天皇に味方するようつたえる詔勅を渡す。長高は詔勅に応じ、後醍醐天皇を船上山まで警固し、船上山にて挙兵する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 3月12日 40歳
赤松則村が鳥羽・竹田(山城国)より六波羅探題に攻め入る。
出典:『梅松論』

正慶2年 1333年 4月27日 40歳
足利高氏が篠村(丹波国)にて幕府方から後醍醐天皇方に寝返る。
出典:『梅松論』、『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月7日 40歳
護良親王、千草忠顕、赤松円心、良忠が六波羅探題館を攻める。北条仲時・北条時益は関東に逃れるべく光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇とともに京都を脱す。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 5月22日 40歳
新田義貞が幕府の拠点である鎌倉(相模国)を制圧する。北条高時北条基時が自害する。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 6月7日 40歳
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 7月-日 40歳
千早城(河内国)を攻めていた幕府軍が降伏する。
出典:『桜雲記』巻之上

建武1年 1334年 10月-日 41歳
北条氏一族が飯盛山(紀伊国)に城を構え蜂起するが、楠木正成が鎮圧する。
出典:『関城書裏書』

建武1年 1334年 11月5日 41歳
後醍醐天皇護良親王を謀叛の罪で捕え鎌倉(相模国)に配流する。
出典:『関城書裏書』

建武2年 1335年 7月23日 42歳
護良親王が鎌倉(相模国)の牢獄にて淵辺義博に討たれる。
出典:『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 7月-日 42歳
信濃国で蜂起した北条時行が鎌倉(相模国)に攻め込む。成良親王足利直義は応戦するも支えきれず鎌倉を退く。成良親王は大江時古に抱えらえ帰洛する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 8月19日 42歳
足利尊氏が鎌倉(相模国)に到着する。辻堂・片瀬原の合戦で足利尊氏と北条時行が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 12月13日 42歳
箱根・竹ノ下の合戦で足利尊氏と尊良親王・新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武3年 1336年 1月10日 43歳
後醍醐天皇が東坂本(近江国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 1月12日 43歳
北畠顕家が愛知川(近江国)に入り、観音寺城(近江国)を攻め落とす。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月30日 43歳
後醍醐天皇が京都に還幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 2月13日 43歳
桜山にて足利尊氏足利直義兄弟と新田義貞北畠顕家楠木正成が戦い、新田勢が勝利する。尊氏・直義は九州に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 2月29日 43歳
「建武」より「延元」に年号を改める。
出典:『桜雲記』巻之上、『大乗院日記目録』同年月条

延元1年 1336年 5月25日 43歳
湊川(摂津国)にて足利尊氏新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。楠木正成が戦死する。
出典:-

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