人 物 史

足利尊氏 あしかが たかうじ
生 没 年嘉元3年(1305)7/27-延文3年(1358)4/29
出 身丹波国幼 名又太郎
別 称太郎、高氏
法 名-
戒 名-
足利貞氏上杉清子
兄 弟 姉 妹足利尊氏足利直義
配 偶 者登子(北条久時の娘)、加古基氏の娘、越前局
足利竹若丸、足利直冬足利義詮足利基氏、足利鶴王
官 位治部大輔、左兵衛督、武蔵守、参議、権大納言
役 職室町幕府 征夷大将軍
城 郭-
参 考 文 献足利尊氏に関する参考文献
関 連 デ ー タ足利尊氏の関連文化財
足利尊氏 元弘3年-建武2年頃の所領目録
足利尊氏 年表
嘉元3年 1305年 7月27日 1歳
足利尊氏が生まれる。
出典:-

徳治1年 1306年 12月14日 2歳
「嘉元」より「徳治」に年号が改まる。
出典:-

延慶1年 1308年 10月9日 4歳
「徳治」より「延慶」に年号が改まる。
出典:-

応長1年 1311年 4月28日 7歳
「延慶」より「応長」に年号が改まる。
出典:-

正和1年 1312年 3月20日 8歳
「応長」より「正和」に年号が改まる。
出典:-

文保1年 1317年 2月3日 13歳
「正和」より「文保」に年号が改まる。
出典:-

元応1年 1319年 4月28日 15歳
「文保」より「元応」に年号が改まる。
出典:-

元亨1年 1321年 2月23日 17歳
「元応」より「元亨」に年号が改まる。
出典:-

正中1年 1324年 12月9日 20歳
「元亨」より「正中」に年号が改まる。
出典:-

嘉暦1年 1326年 4月26日 20歳
「正中」より「嘉暦」に年号が改まる。
出典:-

嘉暦2年 1327年 -月-日 23歳
子・直冬が生まれる。
出典:-

元徳1年 1329年 8月29日 25歳
「嘉暦」より「元徳」に年号が改まる。
出典:-

元徳2年 1330年 6月18日 26歳
子・義詮が生まれる。
出典:-

元徳3年 1331年 4月24日 27歳
後醍醐天皇が笠置城(山城国)に行幸する。
出典:『関城書裏書』

元弘1年 1331年 8月9日 27歳
「元徳」より「元弘」に年号が改まる。
出典:-

元弘1年 1331年 9月27日 27歳
幕府を倒幕するため挙兵した後醍醐天皇の籠る笠置城(山城国)攻めに加わる。
出典:『関城書裏書』

元弘2年 1332年 3月7日 28歳
後醍醐天皇が配所・隠岐国に赴くべく、京都を出立する。千葉五郎左衛門・佐々木備中判官が道中を警固する。
出典:『関城書裏書』

正慶1年 1332年 4月28日 28歳
「元弘」より「正慶」に年号が改まる。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月24日 29歳
後醍醐天皇が配流地の隠岐国を脱出し、伯耆国稲津浦に移る。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月26日 29歳
後醍醐天皇が片見(伯耆国)に移る。後醍醐天皇に供奉していた成田が名和長高の館に赴き、長高に後醍醐天皇に味方するようつたえる詔勅を渡す。長高は詔勅に応じ、後醍醐天皇を船上山まで警固し、船上山にて挙兵する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 3月12日 29歳
赤松則村が鳥羽・竹田(山城国)より六波羅探題に攻め入る。
出典:『梅松論』

正慶2年 1333年 4月27日 29歳
足利高氏が船上山(伯耆国)で挙兵した後醍醐天皇を討つため京都を発つ。篠村(丹波国)に陣を張る。これより幕府を裏切り後醍醐天皇方となる。
出典:『梅松論』、『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月7日 29歳
護良親王、千草忠顕、赤松円心、良忠が六波羅探題館を攻める。北条仲時・北条時益は関東に逃れるべく光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇とともに京都を脱す。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 5月22日 29歳
新田義貞が幕府の拠点である鎌倉(相模国)を制圧する。北条高時北条基時が自害する。
出典:『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月-日 29歳
護良親王が征夷大将軍となる。
出典:『桜雲記』巻之上

元弘3年 1333年 6月7日 29歳
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 8月-日 29歳
後醍醐天皇足利高氏に「尊」の諱を賜う。高氏は尊氏と改名する。
出典:『桜雲記』巻之上

元弘3年 1333年 12月-日 29歳
鎌倉府将軍に任じられた成良親王がその補佐となった足利直義とともに鎌倉(相模国)に下向する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武1年 1334年 11月5日 30歳
後醍醐天皇護良親王を謀叛の罪で捕え鎌倉(相模国)に配流する。
出典:『関城書裏書』

建武2年 1335年 5月-日 31歳
足利尊氏厳島社に参詣する。
出典:『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 7月23日 31歳
護良親王が鎌倉(相模国)の牢獄にて淵辺義博に討たれる。
出典:『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 7月-日 31歳
信濃国で蜂起した北条時行が鎌倉(相模国)に攻め込む。成良親王足利直義は応戦するも支えきれず鎌倉を退く。成良親王は大江時古に抱えらえ帰洛する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 8月2日 31歳
北条時行に攻められた足利直義を救うため足利尊氏が出京する。近江国野路に到着する。
出典:『関城書裏書』、足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月3日 31歳
足利尊氏が四十九院(近江国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月4日 31歳
足利尊氏が垂井(美濃国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月5日 31歳
足利尊氏が垂井(美濃国)に逗留する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月6日 31歳
足利尊氏が下津(尾張国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月7日 31歳
足利尊氏が八橋(三河国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月8日 31歳
足利尊氏が渡津(三河国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月9日 31歳
橋本(遠江国)にて足利尊氏と北条時行勢が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月10日 31歳
足利尊氏が池田(遠江国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月11日 31歳
足利尊氏が掛川(遠江国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月12日 31歳
小夜中山(遠江国)にて足利尊氏と北条時行勢が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月13日 31歳
足利尊氏が藤枝(遠江国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月14日 31歳
国府(駿河国)にて足利尊氏と北条時行勢が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月15日 31歳
足利尊氏が蒲原(駿河国)に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月16日 31歳
足利尊氏が伊豆国に到着する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月17日 31歳
箱根(相模国)にて足利尊氏と北条時行勢が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月18日 31歳
相模川の合戦で足利尊氏と北条時行が戦い、尊氏が勝利する。
出典:『関城書裏書』足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 8月19日 31歳
足利尊氏が鎌倉(相模国)に到着する。辻堂・片瀬原の合戦で足利尊氏と北条時行が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 11月18日 31歳
新田義貞の成敗を請う足利尊氏の奏状が後醍醐天皇のもとに到来する。
出典:『関城書裏書』

建武2年 1335年 12月13日 31歳
箱根・竹ノ下の合戦で足利尊氏と尊良親王・新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武3年 1336年 1月10日 32歳
後醍醐天皇が東坂本(近江国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 1月12日 32歳
北畠顕家が愛知川(近江国)に入り、観音寺城(近江国)を攻め落とす。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月30日 32歳
後醍醐天皇が京都に還幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 2月13日 32歳
桜山にて足利尊氏足利直義兄弟と新田義貞北畠顕家楠木正成が戦い、新田勢が勝利する。尊氏・直義は九州に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 2月29日 32歳
「建武」より「延元」に年号を改める。
出典:『桜雲記』巻之上、『大乗院日記目録』同年月条

延元1年 1336年 4月-日 32歳
足利尊氏直義兄弟が九州を発し、笠戸(周防)に入る。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 5月25日 32歳
湊川(摂津国)にて足利尊氏新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。楠木正成が戦死する。
出典:-

延元1年 1336年 5月27日 32歳
後醍醐天皇延暦寺に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 6月16日 32歳
足利尊氏東寺千手堂を陣所とする。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 6月30日 32歳
京都(山城国)に足利尊氏勢が攻め入り、名和長年が応戦するも戦死する。
出典:-

延元1年 1336年 6月-日 32歳
足利尊氏延暦寺に籠る後醍醐天皇を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 10月10日 32歳
後醍醐天皇延暦寺より京都に還幸する。帝位を恒良親王に譲位する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 10月-日 32歳
斯波高経高師泰金ヶ崎城(越前国)に籠る新田義貞を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 11月-日 32歳
大納言となる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 12月20日 32歳
後醍醐天皇が京都を潜に抜け出し吉野(大和国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武4年 1337年 1月-日 33歳
足利尊氏が斯波頼兼を奥州管領に補任する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月24日 33歳
北畠顕家新田義興、北条時行が足利義詮の拠る鎌倉(相模国)を攻め、攻め落とす。義詮は京都に敗走する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 1月-日 34歳
青野原(美濃国)にて北畠顕家と土岐頼遠・上杉憲顕・今川範国・吉良満義・高師兼が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月4日 34歳
足利尊氏北畠顕家に応戦するため、京都より近江国に高師泰・細川頼春を遣わす。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月6日 34歳
黒地川にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月14日 34歳
雲津川・墨俣川口にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月28日 34歳
南都にて北畠顕家と北朝勢が戦い、北朝勢が勝利する。義良親王は吉野へ、顕家は河内国に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 3月8日 34歳
八幡および古市川原にて北朝勢と南朝勢が戦い、北朝勢が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 5月22日 34歳
石津の合戦で北畠顕家が高師直と戦い、師直が勝利する。顕家は阿倍野にて戦死する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 6月-日 34歳
高師直が南朝勢の籠る八幡(山城国)を攻め、南朝勢を追い払う。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 閏7月2日 34歳
藤島(越前国)にて新田義貞斯波高経の軍勢に遭遇し戦死する。
出典:『桜雲記』巻之中

暦応2年・延元4年 1339年 8月15日 35歳
後醍醐天皇義良親王に譲位する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

暦応2年・延元4年 1339年 8月16日 35歳
後醍醐天皇が崩御する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

暦応2年・延元4年 1339年 10月15日 35歳
後村上天皇が即位する。
出典:『大乗院日記目録』

暦応3年・興国1年 1340年 3月5日 36歳
子・基氏が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第78「足利基氏」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第78「足利基氏」の項

貞和5年・正平4年 1349年 8月24日 45歳
足利直義が高師直により出家・隠居させられる。直義は恵源と名乗る。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

貞和5年・正平4年 1349年 12月20日 45歳
高師直の命により八木光勝が越前国にて上杉重能・畠山直宗を殺害する。
出典:-

観応1年 1350年 1月11日 46歳
赤松則村が死去する。
出典:-

観応1年 1350年 12月9日 46歳
足利直義が南朝に降伏する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 1月7日 47歳
足利直義が八幡(山城国)に出陣する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 2月26日 47歳
武庫川(摂津国)にて上杉能憲等が高師直、高師泰、高師世を殺害する。
出典:-

観応2年・正平6年 1351年 7月30日 47歳
足利直義が京を抜け北陸に落ちる。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 10月8日 47歳
足利直義が鎌倉(相模国)に着く。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応2年・正平6年 1351年 12月15日 47歳
薩唾山の合戦で足利尊氏足利直義が戦い尊氏が勝利する。直義は尊氏に降伏する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

観応3年・正平7年 1352年 2月26日 48歳
足利直義が死去する。毒殺が噂される。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延文3年・正平13年 1358年 4月29日 54歳
足利尊氏が死去する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

元亀3年 1572年 9月12日 
吉田兼見が永源庵に所蔵されている足利尊氏の鎧・旗を見物する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

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