人 物 史

北畠顕家 きたばたけ あきいえ
生 没 年文保2年(1318)3/2-延元3年(1338)5/22
出 身山城国幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名長興寺道音
北畠親房-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者日野資朝の娘、行岡秀種の娘
北畠顕成、北畠師顕、娘(安藤貞孝の妻)、村上師清
官 位中納言
役 職陸奥国司、鎮守府将軍
城 郭多賀城(陸奥国)、霊山城(陸奥国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ北畠顕家の関連文化財
北畠顕家 年表
文保2年 1318年 3月2日 1歳
北畠顕家が生まれる。
出典:-

元応1年 1319年 4月28日 2歳
「文保」より「元応」に年号が改まる。
出典:-

元亨1年 1321年 2月23日 4歳
「元応」より「元亨」に年号が改まる。
出典:-

正中1年 1324年 12月9日 7歳
「元亨」より「正中」に年号が改まる。
出典:-

嘉暦1年 1326年 4月26日 7歳
「正中」より「嘉暦」に年号が改まる。
出典:-

元徳1年 1329年 8月29日 12歳
「嘉暦」より「元徳」に年号が改まる。
出典:-

元徳3年 1331年 3月6日 14歳
北畠顕家後醍醐天皇の前で陵王の舞を舞う。
出典:『増鏡』「むら時雨 北山行幸」、『桜雲記』巻之上

元徳3年 1331年 4月24日 14歳
後醍醐天皇が笠置城(山城国)に行幸する。
出典:『関城書裏書』

元弘1年 1331年 8月9日 14歳
「元徳」より「元弘」に年号が改まる。
出典:-

元弘1年 1331年 9月27日 14歳
幕府を倒幕するため挙兵した後醍醐天皇の籠る笠置城(山城国)を攻めるため幕府軍が発向する。
出典:『関城書裏書』

元弘2年 1332年 3月7日 15歳
後醍醐天皇が配所・隠岐国に赴くべく、京都を出立する。千葉五郎左衛門・佐々木備中判官が道中を警固する。
出典:『関城書裏書』

正慶1年 1332年 4月28日 15歳
「元弘」より「正慶」に年号が改まる。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶1年 1332年 8月-日 15歳
赤松円心が苔縄城(播磨国)にて後醍醐天皇に味方するとして挙兵する。
出典:『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月24日 16歳
後醍醐天皇が配流地の隠岐国を脱出し、伯耆国稲津浦に移る。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 閏2月26日 16歳
後醍醐天皇が片見(伯耆国)に移る。後醍醐天皇に供奉していた成田が名和長高の館に赴き、長高に後醍醐天皇に味方するようつたえる詔勅を渡す。長高は詔勅に応じ、後醍醐天皇を船上山まで警固し、船上山にて挙兵する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

正慶2年 1333年 4月27日 16歳
足利高氏が篠村(丹波国)にて幕府方から後醍醐天皇方に寝返る。
出典:『梅松論』、『関城書裏書』

正慶2年 1333年 5月22日 16歳
新田義貞が幕府の拠点である鎌倉(相模国)を制圧する。北条高時北条基時が自害する。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 6月7日 16歳
後醍醐天皇が大内裏に還幸する。元号を正慶から元弘に戻す。
出典:『関城書裏書』

元弘3年 1333年 10月-日 16歳
陸奥国司に任じられた北畠顕家が、義良親王とともに陸奥国に下向する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武1年 1334年 11月5日 17歳
後醍醐天皇護良親王を謀叛の罪で捕え鎌倉(相模国)に配流する。
出典:『関城書裏書』

建武2年 1335年 7月23日 18歳
護良親王が鎌倉(相模国)の牢獄にて淵辺義博に討たれる。
出典:『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 7月-日 18歳
信濃国で蜂起した北条時行が鎌倉(相模国)に攻め込む。成良親王足利直義は応戦するも支えきれず鎌倉を退く。成良親王は大江時古に抱えらえ帰洛する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 8月19日 18歳
足利尊氏が鎌倉(相模国)に到着する。辻堂・片瀬原の合戦で足利尊氏と北条時行が戦い、尊氏が勝利する。
出典:足利尊氏関東下向宿次・合戦注文「国立国会図書館所蔵康永四年延暦寺申状紙背文書」『南北』関東1巻-270号

建武2年 1335年 12月13日 18歳
箱根・竹ノ下の合戦で足利尊氏と尊良親王・新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。
出典:『関城書裏書』、『桜雲記』巻之上

建武2年 1335年 12月23日 18歳
高野郡(陸奥国)にて斯波家長と相馬胤平が戦う。
出典:『桜雲記』巻之上

建武3年 1336年 1月10日 19歳
後醍醐天皇が東坂本(近江国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 1月12日 19歳
北畠顕家が愛知川(近江国)に入り、観音寺城(近江国)を攻め落とす。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月-日 19歳
北畠顕家日吉社聖真子にて新田義貞らと合流する。
出典:『太平記』巻15「奥州勢著坂本事」

建武3年 1336年 1月30日 19歳
後醍醐天皇が京都に還幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

建武3年 1336年 2月13日 19歳
桜山にて足利尊氏足利直義兄弟と新田義貞北畠顕家楠木正成が戦い、新田勢が勝利する。尊氏・直義は九州に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 2月29日 19歳
「建武」より「延元」に年号を改める。
出典:『桜雲記』巻之上、『大乗院日記目録』同年月条

延元1年 1336年 3月24日 19歳
北畠顕家が中納言・鎮守府将軍となる。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 4月24日 19歳
義良親王北畠顕家が多賀城(睦国)に到着する。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 5月8日 19歳
北畠顕家が那須(下野国)を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 5月24日 19歳
北畠顕家が相馬光胤の籠る小高城(陸奥国)を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 5月25日 19歳
湊川(摂津国)にて足利尊氏新田義貞が戦い、尊氏が勝利する。楠木正成が戦死する。
出典:-

延元1年 1336年 8月5日 19歳
北畠顕家が石川荘松山の城を攻める。
出典:『桜雲記』巻之上

延元1年 1336年 10月10日 19歳
後醍醐天皇延暦寺より京都に還幸する。帝位を恒良親王に譲位する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元1年 1336年 12月20日 19歳
後醍醐天皇が京都を潜に抜け出し吉野(大和国)に行幸する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

延元2年 1337年 1月8日 20歳
義良親王北畠顕家が国府を陸奥国伊達郡の霊山(陸奥国)に移す。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 1月26日 20歳
熊野堂(陸奥国)にて結城宗広と相馬松鶴丸が戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

建武4年 1337年 1月-日 20歳
足利尊氏が斯波頼兼を奥州管領に補任する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 7月14日 20歳
北畠顕家が東弥九郎・楠木左近蔵人に常陸国に攻め入らせ、佐竹義篤と戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 9月14日 20歳
義良親王北畠顕家結城宗広が陸奥の軍勢を率い上洛すべく、陸奥国を発つ。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月13日 20歳
利根川(上野国)にて北畠顕家と北朝勢が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月16日 20歳
安保原(武蔵国)にて北畠顕家と北朝勢が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元2年 1337年 12月24日 20歳
北畠顕家新田義興、北条時行が足利義詮の拠る鎌倉(相模国)を攻め、攻め落とす。義詮は京都に敗走する。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 1月-日 21歳
青野原(美濃国)にて北畠顕家と土岐頼遠・上杉憲顕・今川範国・吉良満義・高師兼が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月4日 21歳
足利尊氏北畠顕家に応戦するため、京都より近江国に高師泰・細川頼春を遣わす。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月6日 21歳
黒地川にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦う。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月14日 21歳
雲津川・墨俣川口にて高師泰・細川頼春と北畠顕家が戦い、顕家が勝利する。
出典:『桜雲記』巻之中

建武5年 1338年 2月28日 21歳
南都にて北畠顕家と北朝勢が戦い、北朝勢が勝利する。義良親王は吉野へ、顕家は河内国に逃れる。
出典:『桜雲記』巻之中

延元3年 1338年 5月22日 21歳
石津の合戦で北畠顕家が高師直と戦い、師直が勝利する。顕家は阿倍野にて戦死する。
出典:『桜雲記』巻之中

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