寺 院 史

四天王寺 天王寺(摂津国) してんのうじ てんのうじ
本 尊救世観世音菩薩
創 建推古天皇1年 593年
開 基聖徳太子
山 号荒陵山
宗 派和宗
別 称-
関連宗教施設-
現 所 在 地〒543-0051
大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
四天王寺 天王寺(摂津国) 年表
享禄4年 1531年 3月10日 
細川道永にいる足利義澄・細川晴元を攻めるべく淀川を越え、中島(摂津国)に陣取る。先陣を住吉のこまつに陣取らせるが、より出撃した晴元勢に敗れる。諸勢は天王寺、今宮、木津、難波に、道永は中島の内の浦井に、浦上村宗は野田・福島(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月4日 
細川道永勢が布陣する天王寺、今宮、木津に三好元長が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

天文2年 1533年 6月21日 
木沢長政が6月20日に天王寺にて切腹したとの噂が流れる。
出典:『私心記』同年月日条

天文5年 1536年 7月27日 
木沢長政が軍勢を催し天王寺まで出陣する。
出典:『私心記』同年月日条

天文5年 1536年 7月29日 
木沢長政、三好長直、三好政長が中島(摂津国)に侵攻する。それにつき本願寺証如が長政に無事中島に侵入したことを祝う使者を送る(使者は藤井八郎左衛門尉)。その際、長政より本陣である天王寺より兵糧を中島に運び入れるにあたって、運搬のための船を所望され、また兵糧も少々所望される。証如は船5艘と飯を送る。この事件により大坂本願寺の備えを厚くするため、加賀四郡番衆が武具を購入したいので100貫の借用を願い出たので、証如は100貫を貸し与える。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 細川晴国最後ノ事

天文5年 1536年 8月9日 
木沢長政が、巳刻(9-11時)中島(摂津国)より天王寺に帰陣。その後、信貴山城(大和国)に帰る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 8月29日 
細川晴国が三宅国村の裏切りにあい、天王寺(摂津国)にて自害する。
出典:-

天文5年 1536年 8月-日 
細川晴国が天王寺において自害する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文11年 1542年 2月1日 
木沢長政天王寺山中城を焼き破却する。
出典:『私心記』同年月日条

天文11年 1542年 3月9日 
三好長慶天王寺へ足軽を出し、所々を放火する。
出典:『私心記』同年月日条

天文16年 1547年 閏7月11日 
天王寺の東にて三好政長と畠山勢が戦う。三好政長勢は、侍311人、他800人程を討ち取る。ただし、政長方も侍37人、雑兵75人が討死し、とりわけ篠原盛家、安宅佐渡守、藤田山城が戦死。彼らの死を惜しむ。
出典:(天文16年)閏7月14日付三好宗三書状(「波多野家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-198号)

永禄8年 1565年 7月4日 
三好長逸が禁裏に天王寺別当職について申事をする。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月24日 
青蓮院尊朝四天王寺別当に補任される。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

永禄9年 1566年 7月17日 
相国寺鹿苑院主が、早朝、に到着する。篠原長房宿所に礼に赴く。また長房内衆の牛島、河人、間壁、和田助兵衛にも礼に赴く。さらに三好宗渭のもとに礼に赴く。天王寺を参詣した後、巳刻(9-11時)に堺に戻り、宿所の旭蓮社に入る。また、加地権介の宿所に礼に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

永禄11年 1568年 11月10日 
三好義継天王寺に三好義継勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、放火、陣取り、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:永禄11年11月10日付三好義継禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1429号「四天王寺文書」)

元亀1年 1570年 8月22日 
織田信長が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、天王寺、ウリウノ、に陣取る。松永久秀が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日

元亀1年 1570年 8月26日 
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 8月28日 
織田信長天王寺に陣取る。織田勢は信長、畠山昭高三好義継松永久秀等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、和田惟政は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条

天正3年 1575年 4月13日 
織田信長大坂本願寺を攻めるため、畿内、若狭国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国、丹後国、丹波国、播磨の国衆、根来寺衆を率い、天王寺、住吉、遠里小野に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正4年 1576年 4月14日 
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月3日 
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月7日 
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月12日 
吉田兼見が天王寺に在陣中の細川藤孝のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月13日 
天王寺の山岡景佐の陣所にて細川藤孝が吉田兼見とともに朝食を食べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日 
明智光秀が体調不良のため天王寺城(摂津国)より京都に帰陣する。曲直瀬道三の診察を受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 3月21日 
織田信長が雑賀郡(紀伊国)より天王寺に陣を移す。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正5年 1577年 8月17日 
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 9月29日 
早朝、織田信長天王寺に到着。佐久間信盛のところにて休息。その後、鷹狩をしながら住吉神社に移る。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正7年 1579年 9月29日 
天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。
出典:『多聞院日記』同年10月6日条

天正8年 1580年 閏3月6日 
織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」

天正11年 1583年 -月-日 
羽柴秀吉四天王寺に伽藍再興の奉加として銭500貫、米5000石を送る。
出典:『天王寺誌』四巻編年録

天正14年 1586年 9月26日 
天王寺の鐘鋳が行われる。
出典:『宇野主水記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月15日 
午末刻(13時前)、三宝院義演四天王寺に参詣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月17日 
三宝院義演天王寺に参詣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日 
豊臣勢が天王寺(摂津国)を焼き討ちする。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日 
徳川家康が大坂(摂津国)に遣わした物見の横田尹松、山城忠久が、夜、家康のもとに戻る。大坂城(摂津国)攻めの天王寺(摂津国)方面の先陣が城より14・15町のところまで押し寄せていることを報告する。家康は、秀忠の命が出る以前に攻め込むことを堅く禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月17日 
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、本多左京、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月19日 
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月21日 
徳川秀忠の使者として土井利勝安藤重信徳川家康のもとを訪れる。家康は大坂近辺に付城を築くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 12月4日 
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

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