人 物 史

菅沼定盈 すがぬま さだみつ
生 没 年天文11年(1542)-慶長9年(1604)7/18
出 身-幼 名竹千代
別 称新八郎
法 名-
戒 名勝徳院殿長翁宗堅大居士
菅沼定村松平忠定の娘
兄 弟 姉 妹菅沼定盈
配 偶 者松平政忠の娘、松平家次の娘
菅沼竹千代、菅沼定仍、菅沼定成、菅沼定芳、菅沼定武、田中吉官、娘(本多康俊の妻)
官 位織部正
役 職-
城 郭野田城(三河国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ菅沼定盈の関連文化財
菅沼定盈 年表
天文11年 1542年 -月-日 1歳
菅沼定盈が三河国野田にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻303「菅沼定盈」の項

弘治1年 1555年 10月23日 14歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 17歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 19歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

元亀1年 1570年 4月23日 29歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 1月11日 32歳
武田信玄菅沼定盈松平忠正の守る野田城(三河国)を攻める。定盈・忠正は城兵の助命嘆願のため切腹することを信玄に申し出たところ、信玄は偽って定盈・忠正を許し、城を出てきたところをとらえ、信玄に仕えるように両名に言い渡す。定盈・忠正は信玄の申し出を拒否する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月15日 32歳
武田信玄が、捕虜としていた菅沼定盈松平忠正を、徳川家康のもとに捕らえられていた山家三方衆の人質と交換することを家康に提案し、家康は受け入れる。広瀬川にて捕虜・人質の交換がなされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

天正1年 1573年 7月28日 32歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正18年 1590年 7月6日 49歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 49歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 51歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 55歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 57歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 62歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 7月18日 63歳
菅沼定盈が長島(伊勢国)にて死去する。
出典:『諸寺過去帳』、『宗堅寺過去帳』、『寛政重修諸家譜』巻303「菅沼定盈」の項

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