人 物 史

森可成 もり よしなり
生 没 年大永3年(1523)-元亀1年(1570)9/20
出 身-幼 名-
別 称満、与三、三左衛門尉
法 名浄翁
戒 名心月淨翁大禅定門、可成寺殿心月淨翁大居士
森可行大橋重俊の娘
兄 弟 姉 妹森可成森可政、女(長田又左衛門の妻)
配 偶 者えい(妙向尼)(林通安の娘)
娘(関成政の妻)、森可隆、娘(青木秀重の妻)、森長可、娘(木下勝俊の妻)、森成利、森長隆、森長氏、森忠政
官 位-
役 職-
城 郭金山城(美濃国)、宇佐山城(近江国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ史料にみえる森可成の呼称
森可成の関連文化財
森可成 年表
大永3年 1523年 -月-日 1歳
森可成が生まれる。
『寛政重修諸家譜』巻第126「森可成」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森可成」の項

享禄1年 1528年 8月20日 6歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 10歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文21年 1552年 -月-日 30歳
子・可隆が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

弘治1年 1555年 10月23日 33歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 34歳
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

弘治4年 1558年 2月28日 36歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 -月-日 36歳
子・長可尾張国蓮台にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森長一」の項

永禄3年 1560年 -月-日 38歳
弟・可政が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第127「森可政」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第127「森可政」の項

永禄8年 1565年 -月-日 43歳
子・成利美濃国金山にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森長定」の項

永禄8年 1565年 -月-日 43歳
森可成が蓮台(尾張国)より烏峰(美濃国)に所領替えとなる。烏峰城(美濃国)を金山城に改称する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森可成」の項

永禄10年 1567年 10月3日 45歳
武芸八幡寺に織田信長が寺領安堵した旨を伝える連署状を坂井政尚森可成が発給する。
出典:(永禄10年)10月3日付坂井政尚・森可成連署状(「武芸八幡宮文書」『織田信長文書の研究』上巻 76号-参考)

永禄11年 1568年 9月7日 46歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 46歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月24日 46歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 46歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 46歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 46歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 46歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 46歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 46歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月2日 46歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 47歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月28日 47歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 47歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月8日 47歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

元亀1年 1570年 -月-日 48歳
子・忠政美濃国金山にて生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項

永禄13年 1570年 1月24日 48歳
飛鳥井雅敦が本興寺(摂津国尼崎)は雅敦の所領であるので、陣取等をしないよう柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚に依頼する。
出典:(永禄13年)1月24日付飛鳥井雅敦書状(「本興寺文書」『大』10-4、元亀元年2月16日条)

永禄13年 1570年 2月16日 48歳
佐久間信盛坂井政尚森可成、野間長前、蜂屋頼隆柴田勝家、竹内秀勝が、本興寺(尼崎)に対し、同寺および門前において織田勢の陣取りをしないことを連署状をもって伝える。
出典:(永禄13年)2月16日付佐久間信盛他連署状(「本興寺文書」『大』10-4、同年月日条)

永禄13年 1570年 3月20日 48歳
この間、森可成が今道、ワラ坂を止め要害を築いている最中であるという。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 48歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 48歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 5月9日 48歳
織田信長坂本(近江国)に下向する。
宇佐山城(近江国)に森可成を置く。
出典:『多聞院日記』同年月11日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『継芥記』同年月日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 48歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月21日 48歳
織田信長小谷城(近江国)攻めのため虎御前山(近江国)に陣取る。坂井政尚森可成斎藤利治、市橋長勝、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治丸毛長照が雲雀山に陣取る。信長の命により、柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀等が小谷城の在所・谷々を焼き払う。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 9月16日 48歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月19日 48歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

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