人 物 史

立花道雪 たちばな どうせつ
生 没 年永正10年(1513)3/17-天正13年(1585)9/11
出 身-幼 名八幡丸
別 称孫次郎、戸次親守、戸次親廉、戸次鑑連、戸次道雪
法 名道雪
戒 名福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士
戸次親家由布惟常の娘、臼杵長景の娘
兄 弟 姉 妹女(清田鑑綱の妻)、女(一万田親泰の妻)、女(安東家忠の妻)、某、立花道雪、女(立花鑑高の妻)、女(戸次親方の妻)、女(利光鑑教の妻)、戸次鑑方、戸次親行、女(戸次親行の妻)
配 偶 者入田丹後守の娘、問注所統景の娘
政千代、誾千代(立花宗茂の妻)、立花宗茂[養子]
官 位左衛門大夫、紀伊守、伯耆守、丹後守
役 職筑後国守護代、筑前国守護代
城 郭立花山城(筑前国)
参 考 文 献立花道雪に関する参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ立花道雪の関連文化財
立花道雪 年表
永正10年 1513年 -月-日 1歳
立花道雪が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 9歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
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享禄1年 1528年 8月20日 16歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 20歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文19年 1550年 2月10日 38歳
田口鑑親・津久見美作守が居館にいた大友義鑑を襲撃し、大友塩市丸が死去する。義鑑は重傷を負う。
出典:-

天文19年 1550年 2月12日 38歳
大友義鑑が死去する。
出典:-

天文23年 1554年 11月20日 42歳
木原(豊後国)にて大友義鎮の命を受けた立花道雪が由布惟信・安藤家忠・安藤連忠・小野信幸とともに菊池義武を包囲し、義武は自害する。
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弘治1年 1555年 10月23日 43歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治3年 1557年 7月12日 45歳
佐伯惟教・戸次鑑連高橋鑑種・臼杵鑑速・田北・朽網・志賀・吉弘・吉岡・田村・小原率いる大友勢20000が秋月文種の籠る古処山城(筑前国)を攻め、同城を落とす。文種は自害する。文種の子・種実は城より脱出する。
出典:『陰徳太平記』巻31「秋月文種切腹付筑紫惟門退防州事」

弘治4年 1558年 2月28日 46歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月-日 50歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄5年 1562年 -月-日 50歳
大友義鎮が剃髪し、宗麟と号す。宗麟に倣い、家臣の田原親賢、志賀伊予守、戸次鑑連も出家し、紹忍、道輝、道雪と号す。
出典:『豊薩軍記』巻1「丹生島築城之事」

永禄8年 1565年 5月17日 53歳
大友義鎮勢が立花鑑載の籠る立花山城(筑前国)を攻め、同城を落とす。
大友勢:戸次鑑連・田原親広・田原親賢・臼杵鑑速・志賀親安・志賀鑑高・朽網鑑安・一万田鑑実。
立花鑑載勢:立花鑑載、原田親種。
出典:『陰徳太平記』巻39「大友宗麟攻立花城付立花鑑載切腹之事」、『西国太平記』巻6「筑前国立花城を逼むる事幷井原田の事」

永禄10年 1567年 7月7日 55歳
戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢が太宰府(筑前国)に陣取る。鑑速が高橋鑑種の家臣が籠る岩屋城(筑前国)を攻め、同城を落とす。鑑連、鑑理は宝満城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 8月15日 55歳
戸次鑑連・臼杵鑑速率いる大友勢が秋月種実領の嘉摩郡、穂波郡に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 8月18日 55歳
立花宗茂が生まれる。
出典:-

永禄10年 1567年 9月3日 55歳
夜、秋月種実が休松(筑前国)に陣取る戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢に夜襲を仕掛け、大友勢は敗走する。大友勢は戸次鑑方、戸次親宗、戸次鑑繁、戸次鑑堅、十時右近、由布五兵衛、安東右馬允、綿貫勘解由が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 11月5日 56歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

永禄12年 1569年 4月4日 57歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢が壇(筑前国)に陣取る。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月4日 57歳
吉川元春小早川隆景等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻めるべく壇(筑前国)を発つ。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月16日 57歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直杉原盛重等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月5日 57歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢の攻撃を受けている立花山城(筑前国)を救うべく、大友勢が同城の後詰めとして到着する。大友勢と毛利勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月18日 57歳
立花山城(筑前国)近くで、吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢と戸次道雪率いる大友勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 -月-日 57歳
吉岡長増が大友宗麟に対し、周防国を大内輝弘に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月11日 57歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 57歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 57歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月15日 57歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 12月-日 57歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連が豊後国より出陣し、日田・珠洲(豊後国)に陣取る。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

永禄13年 1570年 1月11日 58歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、大友宗麟が出陣する。吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連は高良山(筑前国)に陣替えする。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

元亀1年 1570年 4月23日 58歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 58歳
阿弥(肥前国)・境原(肥前国)に陣取る立花道雪、臼杵鑑速に対し、龍造寺隆信鍋島直茂が奇襲をかける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 6月18日 58歳
大友親貞が龍造寺隆信の籠る佐賀城(肥前国)を攻めるべく今山(肥前国)・大願寺村(肥前国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 7月6日 58歳
大友宗麟の命により筑後国衆が浮盃津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 7月7日 58歳
大友宗麟の命により筑後国衆が浮盃津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 8月17日 58歳
大友宗麟の命により筑後国衆が北端津を攻める。龍造寺勢が応戦し、筑後国衆を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 8月21日 58歳
卯刻(5-7時)、龍造寺隆信が、今山(肥前国)に陣取る大友親貞を奇襲し、成松信勝が親貞を討ち取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「大友宗麟再攻佐賀城付大友八郎戦死事」

元亀1年 1570年 10月3日 58歳
大友宗麟龍造寺隆信が和睦する。
出典:『豊薩軍記』巻3「龍造寺蜂起之事」

元亀2年 1571年 6月14日 59歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 -月-日 59歳
戸次鑑連が筑前国守護代になるとともに、立花家の名跡を継ぎ、立花山城(筑前国)城主となる。
出典:『高橋紹運記』

天正1年 1573年 7月28日 61歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正6年 1578年 3月-日 66歳
大友宗麟が日向国の土持親成を攻めるべく軍勢を遣わす。先陣は佐伯惟教・惟真父子・志賀親教、二陣は田北紹鉄・田北鎮周、三陣は田原親貫・田原紹忍、四陣は吉岡統定・田村・小原、五陣は吉弘鎮信、六陣は朽網鑑康、七陣は戸次道雪・戸次玄柵で総勢30000。
出典:『豊薩軍記』巻2「土持叛逆並大友宗麟日州発向之事」

天正6年 1578年 4月-日 66歳
大友勢が土持親成の籠る行縢城(日向国)を攻め、同城を落とす。親成は捕縛される。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 66歳
大友宗麟の命により土持親成が切腹する。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 66歳
立花道雪、志賀親教が土持家家臣・奈津田弾左衛門が籠る橋岸砦(日向国)を攻め、同砦を落とす。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 4月-日 66歳
大友勢が土持親成の籠る松尾城(日向国)を攻め、同城を落とす。
出典:『豊薩軍記』巻2「松尾行縢等落城並親成父子最後之事」

天正6年 1578年 11月12日 66歳
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」

天正7年 1579年 1月11日 67歳
大友宗麟が家督を子・義統に譲る。
出典:『豊薩軍記』巻3「大友義統探題職の事」

天正8年 1580年 8月12日 68歳
織田信長が、大友宗麟島津義久の和睦を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正9年 1581年 10月25日 69歳
高橋統虎立花道雪の養子となり、道雪の娘・誾千代を娶る。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正13年 1585年 9月11日 73歳
立花道雪が死去する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花鑑連」

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