人 物 史

秋月種実 あきづき たねざね
生 没 年天文17年(1548)-慶長1年(1596)9/26
出 身-幼 名黒法師
別 称-
法 名宗闇
戒 名西林院殿笑翁宗誾大居士
秋月文種-
兄 弟 姉 妹秋月晴種、秋月種実、高橋種冬、長野種信、女(原田親種の妻)
配 偶 者田原親宏の娘
秋月種長高橋元種、秋月種至、竜子(城井朝房の妻、相良頼房の妻)、娘(加藤正方の妻)、娘(長野助盛の妻)、娘(板波長常の妻)、娘(秋月直正の妻)
官 位修理大夫、筑前守
役 職-
城 郭古処山城(筑前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ秋月種実の関連文化財
秋月種実 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
秋月種実が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治3年 1557年 7月12日 10歳
佐伯惟教・戸次鑑連高橋鑑種・臼杵鑑速・田北・朽網・志賀・吉弘・吉岡・田村・小原率いる大友勢20000が秋月文種の籠る古処山城(筑前国)を攻め、同城を落とす。文種は自害する。文種の子・種実は城より脱出する。
出典:『陰徳太平記』巻31「秋月文種切腹付筑紫惟門退防州事」

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄10年 1567年 2月7日 20歳
子・種長が生まれる。
出典:-

永禄10年 1567年 7月7日 20歳
戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢が太宰府(筑前国)に陣取る。鑑速が高橋鑑種の家臣が籠る岩屋城(筑前国)を攻め、同城を落とす。鑑連、鑑理は宝満城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 8月15日 20歳
戸次鑑連・臼杵鑑速率いる大友勢が秋月種実領の嘉摩郡、穂波郡に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 9月3日 20歳
夜、秋月種実が休松(筑前国)に陣取る戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢に夜襲を仕掛け、大友勢は敗走する。大友勢は戸次鑑方、戸次親宗、戸次鑑繁、戸次鑑堅、十時右近、由布五兵衛、安東右馬允、綿貫勘解由が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄12年 1569年 12月-日 22歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連が豊後国より出陣し、日田・珠洲(豊後国)に陣取る。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

永禄13年 1570年 1月11日 23歳
龍造寺隆信秋月種実高橋鑑種を攻めるため、大友宗麟が出陣する。吉弘鑑理・臼杵鑑速・戸次鑑連は高良山(筑前国)に陣替えする。
出典:『高橋紹運記』巻4「豊州屋形宗麟公於筑後御出張の事」

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 -月-日 24歳
子・高橋元種が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正14年 1586年 7月13日 39歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 39歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月27日 39歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 39歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が立花宗茂の籠る立花山城(筑前国)を攻めるべく、岩屋城(筑前国)を出立する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 12月22日 39歳
豊臣秀吉小早川隆景安国寺恵瓊黒田孝高に、秋月種実が降伏を申し出たこと、来年1月末には先勢を九州に遣わし、2月初めには弟・秀長を、2月20日には秀吉が九州に向けて出陣することを伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 1月25日 40歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 40歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 40歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 40歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 40歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 40歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 40歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 40歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 40歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 40歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 40歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 40歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 40歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 40歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 40歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 40歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 40歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 40歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 40歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 40歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 40歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 40歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 40歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 5月23日 40歳
大友宗麟が死去する。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄5年 1596年 9月26日 49歳
秋月種実が死去する。
出典:-

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