人 物 史

黒田長政 くろだ ながまさ
生 没 年永禄11年(1568)12/3-元和9年(1623)8/4
出 身播磨国姫路幼 名松寿丸
別 称吉兵衛
法 名ダミアン
戒 名興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道ト大居士
黒田孝高光(櫛橋伊定の娘)
兄 弟 姉 妹黒田長政、黒田熊之助
配 偶 者糸(蜂須賀正勝の娘)、栄(保科正直の娘・徳川家康の養女)
黒田忠之、黒田政冬、黒田長興、黒田高政、菊子、徳(榊原忠次の妻)、亀子
官 位甲斐守、筑前守
役 職-
城 郭中津城(豊前国)、福岡城(筑前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ黒田長政の関連文化財
黒田長政の家臣
史料にみえる黒田長政の呼称
黒田長政 年表
永禄11年 1568年 12月3日 1歳
黒田長政が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 3歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 6歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正4年 1576年 5月14日 9歳
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 -月-日 10歳
黒田孝高が、織田信長に人質として子・松寿丸安土城に送る。信長は松寿丸を羽柴秀吉の長浜城(近江国)に置く。
出典:『黒田長政事績』

天正6年 1578年 10月21日 11歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 11歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月10日 11歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 11歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 11歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 11歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 11歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 6月13日 12歳
竹中重治三木城(播磨国)の向城である平山陣所にて病死する。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正7年 1579年 9月22日 12歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 11月20日 12歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正10年 1582年 3月15日 15歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 3月-日 15歳
黒田孝高が巣雲山城(備中国)を攻める。黒田長政が初陣する。
出典:『黒田長政事績』

天正10年 1582年 6月2日 15歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 15歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正11年 1583年 4月21日 16歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正11年 1583年 4月24日 16歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正12年 1584年 3月21日 17歳
根来寺衆、雑賀奥衆が和泉国に攻め入る。雑賀衆が中村一氏の籠る岸和田城(和泉国)を攻めるが、一氏が退ける。一氏の添番として、根来寺衆と戦う。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 4月9日 17歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 4月12日 17歳
羽柴秀吉が3月21日・22日の羽柴勢と根来寺・雑賀衆・湯川勢との戦いで首級を多くあげた生駒親正黒田長政に褒美として2000石を宛行うことを約す。
出典:同年月日付羽柴秀吉判物(『生駒家宝簡集』乾、「黒田文書」7)

天正12年 1584年 -月-日 17歳
黒田長政が糸(蜂須賀正勝の娘)を娶る。
出典:『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正13年 1585年 7月11日 18歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月22日 18歳
祖父・職隆が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻1「職隆記」・巻2「孝高記」

天正14年 1586年 7月25日 19歳
黒田孝高島津義久討伐の先勢として、軍勢3000を率い京都(山城国)を出立する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正15年 1587年 1月25日 20歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 20歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 20歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 20歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 20歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 20歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 20歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 20歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 20歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 20歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月10日 20歳
黒田長政が通路切をすべく黒田一成栗山利安母里友信、小河伝右衛門、黒田玉松、後藤基次、野々村太郎兵衛、菅正利、桐山孫兵衛、益田与介、野口藤九郎、竹森次貞、高市常三等を引き連れ、耳川(日向国)に赴いたところ島津勢の襲撃を受ける。黒田勢は応戦し、撤退する。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月11日 20歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 20歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 20歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 20歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 20歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 20歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 20歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 20歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 20歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 20歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 20歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 7月3日 20歳
豊臣秀吉小倉城(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が黒田孝高に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡を、毛利高政に豊前国規矩郡・田河郡を給付する。
孝高は馬ヶ嶽城(豊前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 10月1日 20歳
城井鎮房等の豊前国衆が蜂起する。黒田長政は馬嶽城(豊前国)より出陣し、安雲村朝日嶺にて、黒田家に味方する国衆より人質を取る。姫隈城(豊前国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 10月9日 20歳
黒田長政城井鎮房の籠る城井谷城(豊前国)を攻める。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 1月20日 21歳
肥後国一揆につき、豊臣秀吉浅野長政加藤清正小西行長率いる軍勢20000を派遣する。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 4月20日 21歳
黒田長政城井鎮房中津城(豊前国)に招き殺害する。
出典:-

天正17年 1589年 6月17日 22歳
黒田長政が従五位下・甲斐守に叙位・任官。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正18年 1590年 12月28日 23歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正20年 1592年 6月13日 25歳
久野重勝が朝鮮にて死去する。
出典:-

天正20年 1592年 6月14日 25歳
夜、平壌城より高彦伯、柳璟令が大同江(平安川)に布陣する日本軍の宗義智の陣を夜襲する。小西行長黒田長政が応戦し、日本軍が勝利する。
出典:『菅氏世譜

天正20年 1592年 8月10日 25歳
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と小西行長黒田長政立花宗茂が戦い、日本軍が勝利する。史儒が戦死する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

天正20年 1592年 10月27日 25歳
李如松率いる明軍50000が山海関を出立する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄1年 1592年 12月8日 25歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月25日 25歳
李如松率いる明軍50000が鴨緑江を渡る。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月3日 26歳
李如松率いる明軍50000が安定館に到着する。小西行長大友義統黒田長政小早川秀包に加勢を依頼する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月6日 26歳
李如松率いる明軍43000と朝鮮軍8000が、小西行長宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄が守る平壌を攻める。行長が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月8日 26歳
夜、小西行長が平壌城より撤退する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月9日 26歳
8日夜に平壌城を撤退し明軍の追撃を受けていた小西行長が黒田家家臣・小河信章の守る龍泉寺に入城する。信章は行長を追う明を退ける。黒田長政が行長を白川城に迎える。行長は撤退を勧めるが、長政および小早川秀包は応戦を主張し、行長には撤退を勧める。龍泉城の信章は栗山利安の陣取る江陰に入り、秀包は牛峯に陣取る。
明軍は江陰を攻め、黒田勢の利安・黒田直之・母里友信・後藤基次・衣笠景延が応戦する。黒田勢は長政本陣の白川城まで引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月10日 26歳
黒田長政が籠る白川城を明軍が攻める。長政が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月16日 26歳
李如松率いる明軍が開城府に入城する。
出典:『黒田家譜』巻7「長政記」

文禄2年 1593年 2月18日 26歳
豊臣秀吉小西行長黒田長政に開城府に陣取るよう命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)

文禄2年 1593年 2月18日 26歳
豊臣秀吉小早川隆景に漢城に陣取るよう命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)

文禄2年 1593年 5月20日 26歳
豊臣秀吉が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、鍋島直茂(軍勢7642)、黒田長政(軍勢5082)、加藤清正・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、島津義弘(軍勢2128)、高橋元種(軍勢741)、秋月種長(軍勢388)、島津忠豊(476)、伊東祐兵(706)の総勢30980と小西行長宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信(軍勢7415)、長谷川秀一(軍勢2470)、細川忠興(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、浅野長政長継父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、伊達政宗(軍勢1258)、黒田孝高(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)

文禄2年 1593年 6月24日 26歳
宇喜多秀家毛利秀元小早川隆景吉川広家黒田長政加藤清正小西行長浅野長政率いる軍勢45000が晋州城を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻79「遊撃将軍請和並晋州城落去之事」

文禄3年 1594年 2月13日 27歳
黒田長政、菅正利がそれぞれ虎を狩る。
出典:『菅氏世譜

文禄4年 1595年 7月8日 28歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 28歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 28歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 28歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄5年 1596年 5月18日 29歳
叔父・利高が死去する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 29歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 30歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長2年 1597年 8月16日 30歳
寅刻(3-5時)、加藤清正鍋島直茂黒田長政毛利輝元が黄石山を攻める。
出典:『鹿苑日録』同年9月16日条、『相国考記』同年9月16日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

慶長2年 1597年 9月7日 30歳
毛利秀元黒田長政が軍勢30000を率い明軍が陣取る稷山(朝鮮国)に向かう。稷山にて解生率いる明軍と黒田勢が戦う。
出典:『菅氏世譜

慶長2年 1597年 12月27日 30歳
酉刻(17-19時)、黒田長政竹中重利安国寺恵瓊が西生浦に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長2年 1597年 12月29日 30歳
未刻(13-15時)、毛利秀元黒田長政、竹中源介、山口宗永が船から蔚山城の様子をうかがう。秀元等は西生浦に戻る。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月2日 31歳
巳刻(9-11時)、長宗我部元親盛親父子が船20・30叟にて蔚山城に到着する。未刻(13-15時)、池田秀氏が船にて蔚山城に到着する。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月3日 31歳
子刻(23-1時)、明・朝鮮軍が蔚山城を攻める。辰刻(7-9時)、明・朝鮮軍が城攻めを止める。
出典:浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月4日 31歳
巳刻(9-11時)、浅野幸長加藤清正等の籠る蔚山城を攻めていた明・朝鮮の軍勢が撤退する。夜、蔚山城の救援に赴いていた日本勢が蔚山城に入城する。
出典:浅野幸長家臣某蔚山籠城覚書(『浅野家文書』80号)、浅野幸長高麗陣蔚山表覚書(『浅野家文書』254号)、浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 1月6日 31歳
蔚山城に籠城していた日本勢が、同城を発ち、西生浦まで移る。
出典:浅野幸長蔚山籠城以下万事覚書(『浅野家文書』255号)

慶長3年 1598年 2月-日 31歳
小早川秀秋が諸城の城主を定める。蔚山城は加藤清正を、西生海城は毛利吉成を、釜山城は寺沢広高を、竹島城は鍋島勝茂を、リヤク山城は黒田長政を、コチャウ城は立花宗茂を、泗川城は島津義弘を、南海城は柳川調信を、順天城は小西行長を城主とする。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 6月13日 31歳
黒田長政が菅正利に豊前国宇佐郡蜷木村内にて300石を給付し、足軽50名の頭とする。
出典:『菅氏世譜

慶長3年 1598年 8月18日 31歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月7日 32歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月10日 32歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月6日 33歳
保科正直の娘・栄が徳川家康の養女として黒田長政に嫁ぐ。栄の輿は大坂城(摂津国)西ノ丸より出発し、本多忠勝村越直吉が付き従い、輿の受け取りは母里友信が担う。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 6月16日 33歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 33歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月5日 33歳
黒田長政徳川家康上杉景勝征伐につき、伏見城(山城国)より出陣する。黒田勢の先手士頭は後藤基次黒田一成、旗奉行は小河之直。大坂屋敷留守居に母里友信栗山利安、宮崎助大夫を置く。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 8月1日 33歳
池田輝政による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月8日 33歳
毛利輝元石田三成に与同したことについて、それが安国寺恵瓊一人の画策によるものであるとする吉川広家からの弁明を受けた徳川家康が、広家の説明を承知したことを仲介者である黒田長政に伝える。
出典:(慶長5年)8月8日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号145)

慶長5年 1600年 8月14日 33歳
浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興井伊直政本多忠勝清須城(尾張国)に到着する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月21日 33歳
加藤嘉明黒田長政藤堂高虎福島正則細川忠興清須城(尾張国)より出陣し、岐阜城(美濃国)攻めの先陣として、萩原、尾越を渡り大良近辺を放火して大良堤に宿営する。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 8月28日 33歳
浅野幸長黒田長政が連署状でもって小早川秀秋石田三成方から徳川家康方に与するよう説得する。
出典:(慶長5年)8月28日付浅野幸長・黒田長政連署状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号143)

慶長5年 1600年 -月-日 33歳
小早川秀秋が稲葉佐渡守、平岡頼勝に命じ、黒田長政、岡野江雪斎、山岡道阿弥に使者を送り、徳川家康に通じることを伝える。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 33歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月21日 33歳
毛利輝元増田長盛黒田長政井伊直政を介し徳川家康との和睦を請う。家康は和睦の申し出を受け入れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月1日 33歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 11月17日 33歳
黒田長政中津城(豊前国)に帰城すべく、大坂(摂津国)を発つ。
出典:『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 11月-日 33歳
黒田長政中津城(豊前国)に帰城する。
出典:『菅氏世譜

慶長5年 1600年 12月8日 33歳
黒田長政が家臣を名島城(筑前国)に遣わし、城を請け取る。
出典:『黒田家譜』巻13「長政記」

慶長5年 1600年 12月11日 33歳
黒田長政名島城(筑前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻13「長政記」、『菅氏世譜

慶長6年 1601年 3月15日 34歳
黒田長政が菅正利に筑前国怡土郡内にて3000石を給付し、与力として菅四郎左衛門、石尾上藤九郎、中村孫介、名倉源太を付す。
出典:『菅氏世譜

慶長6年 1601年 4月1日 34歳
黒田長政が菅正利に家臣として近藤十助、菅与七郎、永田六兵衛、安藤平内、久東藤左衛門、塩津伝左衛門、飯付加右衛門、重松助太郎、田吹与三郎、溝部善兵衛、溝部又助、羽仁半助、田部与作、弓削甚左衛門、豊前喜左衛門、津崎善兵衛を付す。
出典:『菅氏世譜

慶長6年 1601年 -月-日 34歳
黒田長政が、大隈城(筑前国)に後藤基次を、鷹取城(豊前国)に母里友信を、麻底良城(筑前国)に栗山利安を、黒崎城(筑前国)に井上之房を、若松城(筑前国)に三宅若狭を、小石原城(筑前国)に黒田六郎右衛門を置く。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長7年 1602年 11月9日 35歳
子・忠之が筑前国福岡城東ノ丸にて生まれる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長8年 1603年 2月12日 36歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月23日 36歳
黒田長政が京都に到着する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長9年 1604年 3月20日 37歳
辰刻(7-9時)、父・如水が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長9年 1604年 5月1日 37歳
徳川秀忠黒田如水死去につき黒田長政に銀子200枚を贈る。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 4月16日 38歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長11年 1606年 2月-日 39歳
娘・徳が生まれる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長11年 1606年 9月23日 39歳
徳川秀忠黒田長政邸に赴く。江戸城(武蔵国)天守台の石垣普請の功を賞す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長15年 1610年 -月-日 43歳
子・長興が生まれる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 6月24日 44歳
加藤清正が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月17日 45歳
駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに、京極高知が銀100枚・御服10領を、黒田長政が銀200枚・御服10領を、黒田万徳丸が綿200把・銀3000両を、有馬豊氏が銀50枚・御服2領を、稲葉典通が御服2領・銀50枚を、山崎家盛が御服2領・銀50枚、古田重治が御服・銀子を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月18日 45歳
徳川家康が諸大名に茶を振る舞う。日野輝資、山名禅高が同席する。両名の退席後、家康は黒田長政万徳丸父子を召し、酒盃を下賜す。黒田父子に万徳丸を右衛門佐に任ずことを告げる。また、家康は万徳に刀(銘 長光)・脇差(銘 岡本正宗)・真壺を下賜し、長政に鷹・馬を贈る。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 -月-日 45歳
子・正隆が生まれる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長18年 1613年 1月3日 46歳
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月21日 46歳
黒田万徳丸徳川秀忠に謁す。秀忠は万徳に諱を賜い、万徳は忠長と称す。秀忠は忠長に太刀(銘 守家)・脇差(銘 国次)・鹿毛馬を下賜する。その返礼として、秀忠に黒田長政が銀1000両を、忠長が銀3000両を献上する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長18年 1613年 1月25日 46歳
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 2月20日 46歳
黒田万徳丸が江戸(武蔵国)にて徳川秀忠より偏諱を賜り「忠長」と名乗る。忠長は礼として徳川家康に銀子300枚、父・長政は銀子100枚を進上する。家康は忠長に盃と太刀(銘 守家)・馬(鹿毛)を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月25日 46歳
辰刻(7-9時)、浅野幸長和歌山(紀伊国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年9月1日条、『当代記』同年月日条、『慶長年録』同年月日条、『浅野考譜』

慶長19年 1614年 3月8日 47歳
広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
黒田長政池田玄隆が家康に銀200枚・服10領を献上する。家康は長政・玄隆に暇を賜い、江戸(武蔵国)に向かう。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月8日 47歳
江戸城(武蔵国)石垣普請の黒田長政浅野長晟の持ち場の石垣が崩壊する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 47歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 47歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 47歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 47歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 47歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 47歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 47歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 47歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 47歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 47歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、石川忠総柳沢元吉小倉吉次[水野分長勢]
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 47歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 47歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 47歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 47歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 47歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 47歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 47歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 47歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 47歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 47歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 47歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 47歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 47歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項

慶長19年 1614年 10月23日 47歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 47歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 47歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 47歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 47歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 47歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月29日 47歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月-日 47歳
大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政は、徳川家康秀忠父子に江戸城(武蔵国)にて留守居をすることを自ら申し出る。
出典:『菅氏世譜

慶長19年 1614年 11月1日 47歳
細川忠興が松井興長に、徳川家康は10月11日に駿府城(駿河国)より出陣したこと、忠興にも大坂城(摂津国)攻めへの出陣の命が下ったこと、細川勢の出陣は島津忠恒毛利宗瑞の出陣を確認した後にするようにとの指示があったこと、福島正則黒田長政加藤嘉明江戸城(武蔵国)に留守居となったこと等を伝える。
出典:『綿考輯録』巻19

慶長19年 1614年 11月2日 47歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 47歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 47歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 47歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月7日 47歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月10日 47歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日 47歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 47歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 47歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 47歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 47歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 47歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 47歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 47歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月30日 47歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 47歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 47歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月9日 47歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月11日 47歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 47歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 47歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 47歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 47歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月24日 47歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 47歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 47歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 48歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月12日 48歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 48歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 48歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 4月10日 48歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項

慶長20年 1615年 4月20日 48歳
黒田長政伊達政宗加藤嘉明東福寺不二庵に到着する。同庵に長政の妻、娘・とく、子・犬万、子・万吉が合流する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長20年 1615年 4月21日 48歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月25日 48歳
大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政福岡城(筑前国)の留守居である井上之房栗山利安黒田一成、桐山信行、黒田利長、菅正利に、軍勢10000にて出陣すること、15日分の兵粮・飼料を用意すること、上方にての兵粮奉行は毛利又左衛門とすること、玉薬・鉄砲奉行は勝野伊右衛門・高岡権太夫・倉八兵衛とすること、火矢奉行は都筑十兵衛とすること、楯の板しやく木奉行には山本兵右衛門・庄野半太夫・小西助之允とすること、大鋸喜兵衛・しやくわん喜左衛門・鍛冶10名・伴彦兵衛・松本五右衛門・馬杉喜右衛門をともなうこと、鉄100貫目を持参すること、福岡城の留守居は毛利左近・母里友信・手塚水雪・菅正利とすること、領内に関所を設け人の出入りを改めること、黒田徳松を福岡城番に加えること命じる。
出典:『菅氏世譜

慶長20年 1615年 4月26日 48歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 48歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 48歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 48歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 48歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 48歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月5日 48歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月5日 48歳
黒田忠長勢10000が兵庫(摂津国)に到着する。黒田勢:黒田忠長[大将]、井上之房、菅正利、衣笠景延、桐山信行、栗山利安、竹森次貞、母里友信、吉田長利。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長20年 1615年 5月6日 48歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 48歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次小倉吉正柳沢元吉丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項

慶長20年 1615年 5月8日 48歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 6月6日 48歳
母里友信が死去する。
出典:-

元和1年 1615年 7月13日 48歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 49歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和2年 1616年 9月5日 49歳
徳川秀忠黒田長政に筑前国502416石を給付する判物を発給する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和2年 1616年 -月-日 49歳
娘・亀が生まれる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 9月17日 50歳
黒田長政が日光東照社の廟前に石造(筑前国志摩郡親山産)の鳥居を立てる。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和4年 1618年 1月25日 50歳
黒田長政が菅正利、宮崎織部、手塚久左衛門に命じ福岡城(筑前国)の城下・荒戸西の町のはずれより早良川の遠干潟迄の砂原に松を植樹するよう命じる。
出典:『菅氏世譜

元和6年 1620年 8月16日 53歳
江戸(武蔵国)に居る黒田長政が、福岡(筑前国)に居る井上之房・菅正利に、8月7日に田中忠政が死去したこと、忠政が家督相続人を立てていなかったので幕府が使節を忠政の所領である筑後国に遣わすこと、それにつき筑前国の領民が筑後国に赴くことがないようすること等を伝える。
出典:『菅氏世譜

元和7年 1621年 11月5日 54歳
黒田長政が菅正利の子・重俊への家督譲与は認めつつも退去が認めず隠居領1200石を給付し、福岡城(筑前国)南ノ丸の城番とする。
出典:『菅氏世譜

元和8年 1622年 1月26日 55歳
松平忠良の娘が徳川秀忠の養女として黒田忠之に入嫁する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和9年 1623年 8月4日 56歳
黒田長政が報恩寺にて死去する。
『黒田家譜』巻14「長政記」では閏8月4日死去とある。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻14「長政記

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