明徳3年 1392年 -月-日 |
子・玄真が生まれる。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
明徳4年 1393年 4月24日 |
綽如が死去する。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
応永1年 1394年 -月-日 |
足利義嗣が生まれる。 |
出典:- |
明徳5年 1394年 2月21日 |
大内持世が生まれる。 |
出典:- |
応永1年 1394年 7月5日 |
「明徳」より「応永」に年号を改める。 |
出典:- |
応永1年 1394年 7月16日 |
播磨守護 赤松義則が南都に在陣をしていることを聞き、戦勝祈願として百座不動供を各住坊で修し巻数を作成することが東寺学衆評定で決まる。 |
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻 |
応永1年 1394年 7月25日 |
東寺が乗観を使者として南都在陣中の播磨守護 赤松義則のもとへ祈祷巻数を贈る。 |
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻 |
応永1年 1394年 7月28日 |
南都在陣中の赤松義則のもとへ遣わした乗観が東寺に帰還する。義則の返事をもたらす。またついでに交渉した陣中夫・千草山材木引・相国寺塔婆材木引の課役免除を義則に交渉。相国寺塔婆材木引の課役については、「一国大儀」のため免除不可となったが、陣中夫と千草山材木引の課役は免除され、義則の書下を賜う。 |
出典:学衆方引付 応永元年『相生市史』第7巻 |
応永1年 1394年 9月11日 |
足利義満が日吉社に参詣する。 |
出典:『日吉社室町殿御社参記』同年月日条 |
明徳5年 1394年 6月13日 |
足利義教が生まれる。 |
出典:- |
応永1年 1394年 -月-日 |
子・義嗣が生まれる。 |
出典:- |
応永1年 1394年 -月-日 |
島津久豊が高城(日向国)に移る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津久豊」の項 |
応永2年 1395年 9月-日 |
信貴山が焼失する。 |
出典:『大乗院日記目録』同年月日条 |
応永3年 1396年 7月10日 |
存如が生まれる。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
応永3年 1396年 7月10日 |
子・存如が生まれる。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第1「歴世宗主伝第一」 |
応永4年 1397年 5月7日 |
細川頼元が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川頼元」の項 |
応永5年 1398年 -月-日 |
伊勢貞国が生まれる。 |
出典:- |
応永6年 1400年 10月13日 |
大内義弘が堺に到着する。 |
出典:『堺記』 |
応永6年 1400年 10月27日 |
大内義弘の幕府への謀叛が噂される。 |
出典:『東院毎日雑々記』同年月日条 |
応永6年 1400年 11月29日 |
堺城にて大内義弘と幕府軍が戦う。 |
出典:応永6年12月日得田章長軍忠状(「得田文書」『加能史料』室町Ⅰp80) |
応永6年 1400年 12月21日 |
堺にて大内義弘と幕府軍が戦い、義弘が戦死する。 |
出典:『五壇法記』・『東院毎日雑々記』同年月日条 |
応永8年 1401年 -月-日 |
東常縁が生まれる。 |
出典:- |
応永8年 1401年 3月25日 |
菊池武士が死去する。 |
出典:- |
応永8年 1401年 10月2日 |
細川頼長が土佐国守護に補任される。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川頼長」の項 |
応永10年 1403年 -月-日 |
島津忠国が日向国諸県郡高城にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津忠国」の項 |
応永10年 1403年 4月5日 |
孝円が長谷寺に参詣する。 |
出典:『寺院細々引付』同年月日条 |
応永10年 1403年 5月6日 |
足利義満が長谷寺に参詣する。 |
出典:『大乗院日記目録』同年月日条 |
応永11年 1404年 -月-日 |
松平信光が生まれる。 |
出典:- |
応永11年 1404年 5月29日 |
山名宗全が生まれる。 |
出典:- |
応永12年 1405年 1月20日 |
足利義持より偏諱を賜り、持有と名乗る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川持有」の項 |