永正14年? 1517?年 -月-日 |
小幡憲重が生まれる。 |
出典:- |
永正14年 1517年 2月10日 |
武田元繁が佐東銀山城(安芸国)を発し、今田に陣取る。 |
出典:『陰徳太平記』巻3「武田元繁帰安芸国付攻諸城事」 |
永正14年 1517年 4月-日 |
蓮綱が上人号の勅許を受ける。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」 |
永正14年 1517年 5月8日 |
中御門宣忠が生まれる。 |
出典:『系図纂要』「中御門」 |
永正14年 1517年 8月4日 |
中御門宣胤が誓願寺法談を聴聞する。 |
出典:『宣胤卿記』同年月日条 |
永正14年 1517年 8月10日 |
中御門宣胤が誓願寺法談を聴聞する。誓願寺本尊遷座の勧進として円頓戒があり、宣胤は房什僧正・恵空上人・邦諌上人より受けていたが、結縁のため再度受戒する。戒師は三福寺住持格翁(56歳。南岳大師から数えて31代)。布施を遣わす。法名は本尊の腹中に納められるという。受戒者男女2400人という。 |
出典:『宣胤卿記』同年月日条 |
永正14年 1517年 8月17日 |
誓願寺で法談がある。円頓戒があり、受戒者は8/10以上であったという。 |
出典:『宣胤卿記』同年月日条 |
永正14年 1517年 8月18日 |
誓願寺法談結願。申刻、いつものごとく御霊祭が行われる。近年、臨時で風流が行われることがあったので見物人が雲霞のごとく往来する |
出典:『宣胤卿記』同年月日条 |
永正14年 1517年 9月18日 |
三好之長・寒川左馬允が淡路国に攻め入る。 |
出典:大般若経奥書(永正14年閏10月25日修補) |
永正14年 1517年 9月28日 |
般舟三昧院にて後土御門院の聖忌を執行する。 |
出典:『宣胤卿記』同年月日条 |
永正14年 1517年 10月3日 |
武田元繁が小田信忠の有田城(安芸国)を攻める。 |
出典:『陰徳太平記』巻3「武田攻有田城付吉川高橋論同城事」 |
永正14年 1517年 10月21日 |
武田元繁が毛利元就の猿掛城を攻めるべく、熊谷元直、山中、一条、板垣、小河内、粟屋の軍勢1000を遣わし、同城近辺を放火する。元就が猿掛城を出て熊谷等の武田勢と戦い、武田勢を退ける。 |
出典:『陰徳太平記』巻3「猿掛麓合戦之事」 |
永正14年 1517年 10月22日 |
有田(安芸国)にて武田元繁と毛利元就が戦い、元繁が戦死し、元就が勝利する。武田方は、熊谷元直が戦死する。 |
出典:『陰徳太平記』巻3「有田合戦付元繁戦死之事」 |
永正14年 1517年 10月23日 |
毛利元就と香川行景・己斐宗瑞が戦い、元就が勝利する。行景・宗瑞が戦死する。 |
出典:『陰徳太平記』巻3「香川己斐討死之事」 |
永正14年 1517年 閏10月2日 |
足利義稙が有馬・塩原(摂津国)に湯治に赴くため、京都を出発する。 |
出典:『陰徳太平記』巻4「公方義植公有馬御入湯之事」 |
永正14年 1517年 閏10月22日 |
足利義稙が有馬・塩原(摂津国)に湯治より京都に戻る。 |
出典:『陰徳太平記』巻4「公方義植公有馬御入湯之事」 |
永正14年 1517年 閏10月23日 |
淡路国衆の船越、田村が三好之長・寒川左馬允に寝返ったため、淡路国守護・細川尚春が堺に逃亡する。 |
出典:大般若経奥書(永正14年閏10月25日修補) |
永正15年 1518年 -月-日 |
香西元成が生まれる。 |
出典:- |
永正15年 1518年 -月-日 |
青木信親が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信親」の項の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信親」の項 |
永正15年 1518年 -月-日 |
仁賀保挙久が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第205「仁賀保挙久」の項にみえる没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第205「仁賀保挙久」の項 |
永正15年 1518年 1月1日 |
日野晴光が生まれる。 |
出典:『系図纂要』「日野」 |
永正15年 1518年 1月22日 |
妙宗が死去する。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」 |
永正15年 1518年 3月11日 |
実順が死去する。 |
出典:『大谷本願寺通紀』巻第2「歴世宗主伝第二」 |
永正15年 1518年 4月3日 |
将軍 足利義稙が北野社に参詣する。細川尹賢、一色政具、畠山順高、伊勢貞忠、高倉永家、伊勢貞陸、香阿弥、細川高国、畠山義聴が御供する。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
永正15年 1518年 4月4日 |
延暦寺にて供養が行われる。 |
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』) |
永正15年 1518年 4月8 - 日 |
梶井宮堯胤法親王が天台座主を辞す。 |
出典:天台座主任免覚書(『延暦寺文書』32号) |
永正15年 1518年 4月13日 |
妙法院覚胤法親王が天台座主に補任される。 |
出典:天台座主任免覚書(『延暦寺文書』32号) |
永正15年 1518年 4月25日 |
北野にて醍醐寺の梵鐘を鋳造する。数万人が見物に訪れる。 |
出典:『厳助大僧正記』同年月日条 |
永正15年 1518年 5月28日 |
左大臣となる。 |
出典:『系図纂要』「三条」 |
永正15年 1518年 7月9日 |
六角氏綱が死去する。 |
出典:- |