人 物 史

勧修寺晴右 かじゅうじ はれみぎ
生 没 年大永3年(1523)-天正5年(1577)1/1
出 身-幼 名-
別 称晴秀、松国、高寿院
法 名-
戒 名天勁
勧修寺尹豊伊勢貞遠の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者粟屋元子(粟屋元隆の娘)
勧修寺晴豊、晴子(誠仁親王妃)、万里小路充房、日袖、娘(正親町三条公仲の妻)
官 位権大納言
氏 族 門 流藤原北家高藤流甘露寺支流
参 考 文 献勧修寺晴右に関する参考文献
関 連 デ ー タ勧修寺晴右の関連文化財
勧修寺晴右 年表
大永3年 1523年 -月-日 1歳
勧修寺晴右が生まれる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

享禄1年 1528年 8月20日 6歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 10歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文13年 1544年 2月24日 22歳
子・晴豊が生まれる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天文19年 1550年 11月26日 28歳
右大弁となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天文22年 1553年 2月23日 31歳
中御門、山科言継勧修寺晴秀足利義藤の籠る霊山城(山城国)に赴く。一行は義藤と面会する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文24年 1555年 2月16日 33歳
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

弘治1年 1555年 10月23日 33歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 36歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 3月24日 43歳
立本寺が勧修寺晴秀にかい樽2荷を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 3月29日 43歳
伊勢貞助、中澤光俊が勧修寺晴秀のもとを訪れる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 4月3日 43歳
結城国縁が当年の礼として勧修寺晴秀に20疋を贈る。
神光院が晴秀のもとに公事の件で訪れる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 4月3日 43歳
伊勢貞助、結城国縁が勧修寺晴秀のもとを訪れる。雑談する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 4月15日 43歳
勧修寺晴秀進士藤延に鈴3を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 4月19日 43歳
進士晴舎が勧修寺晴秀に鈴を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 4月20日 43歳
立本寺の二位が勧修寺晴秀に鈴を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月5日 43歳
朝廷の使者として勧修寺晴秀が訪れたので饗応する。その場に、三好義継松永久通が訪れる。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月9日 43歳
三好義継勧修寺晴秀のもとに礼に訪れ太刀を贈られる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄8年 1565年 5月18日 43歳
松永久通が大森寿観の所(常徳院の内)に宿泊する。
勧修寺晴秀山科言継が礼のため訪れる。
出典:『晴右記』『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 7月5日 43歳
立本寺勧修寺晴秀に樽2荷を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月22日 45歳
勧修寺晴秀が畠山安枕斎に樽代を、畠山伊豆守に太刀を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 10月25日 45歳
畠山安枕斎が勧修寺晴秀のもとに礼に訪れる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月3日 45歳
山科言継勧修寺晴秀が富田(摂津国)に居す足利義栄のもとへ赴き、太刀をもって礼をする。義栄と対面する。義栄の父・足利義冬にも礼をする。申次は畠山伊豆守。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月4日 45歳
勧修寺晴秀が富田(摂津国)より京都に戻る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月17日 45歳
伊勢貞助が勧修寺晴秀のもとを訪れる。外記を召し寄せ、将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 11月18日 45歳
禁裏供御御料所のことにつき若狭国は朝倉義景よりの進納を期待していることを義景に伝えるよう勧修寺晴秀が福寿院に命じる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 12月25日 45歳
勧修寺晴秀足利義栄の居る富田(摂津国)に赴く。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 12月26日 45歳
勧修寺晴秀足利義栄に対面する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 12月27日 45歳
勧修寺晴秀が富田(摂津国)より京都に戻る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄10年 1567年 -月-日 45歳
勧修寺晴秀が晴右と改名する。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

永禄11年 1568年 1月2日 46歳
長橋局が勧修寺晴右に1荷2種を賜う。筆屋が晴右のもとに礼に訪れ筆を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月6日 46歳
大すけ殿が勧修寺晴右に荒巻5を贈る。
下長谷川が晴右のもとに礼に訪れ1荷2種を贈る。吸物にて1献酒を飲む。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月7日 46歳
近衛前久勧修寺晴右に1荷2種を賜う。
甲斐守が晴右のもとを訪れ扇を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月10日 46歳
大すけ殿が勧修寺晴右に1荷2種を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月11日 46歳
雲籠院が勧修寺晴右に1荷2種を贈る。晴右は大聖寺に赴く。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月13日 46歳
大聖寺殿が勧修寺晴右に1荷2種を賜う。
理性院が晴右に1荷2種を給う。
薬屋が晴右に餅3を贈る。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月27日 46歳
水無瀬が勧修寺晴右のもとを訪れる。将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月28日 46歳
水無瀬が勧修寺晴右のもとを夕飯に訪れる。甘露寺も相伴する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月29日 46歳
勧修寺晴右、大外記、官務、加州、水無瀬が将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 1月30日 46歳
水無瀬、勧修寺晴右二条晴良のもとへ赴く。
曇華院へ礼に赴く。杉伊、加州と将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月3日 46歳
勧修寺晴右、畠山安枕斎、水無瀬が将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月4日 46歳
将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月8日 46歳
足利義栄の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 1月2日 48歳
筆屋が勧修寺晴右のもとに礼に訪れ筆を贈る。酒を飲ます。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月10日 48歳
中山孝親勧修寺晴右山科言継、甘露寺経元、庭田重通、日野、中院、局務師廉ら僧俗貴賤60名ほどが織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 48歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀2年 1571年 7月19日 49歳
嵯峨より依頼されていた踊之歌2色(松の名所、色のをとり)を山科言継より受け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 7月19日 49歳
母・妙永の忌日につき清和院寿興が斎に来る。
中山孝親に以前依頼されていた堂上次第を用意し送る。
畠山次郎より依頼のあった躍之歌3色(すきの茶、鷹野、はねをとり)を送る。
勧修寺晴右より踊之歌、嵯峨が所望しているというので2色(松の名所、色のをとり)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 51歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 12月25日 51歳
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正3年 1575年 12月7日 53歳
孫・光豊が生まれる。
出典:-

天正4年 1576年 4月27日 54歳
吉田兼見が体調不良の勧修寺晴右を見舞う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日 54歳
勧修寺晴右、甘露寺経元、中山孝親冷泉為純村井貞勝が、織田信長本願寺顕如の戦いについて話し合う。貞勝は禁裏よりすぐに勅使を派遣するように4名に要請し、晴右が明日にでも勅使を派遣すると返答する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日 54歳
勧修寺晴豊、甘露寺経元が、本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもとにが勅使として赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月19日 54歳
吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 7月6日 54歳
大乗院尋円と東北院兼深の確執について、伝奏である勧修寺晴右中山孝親、甘露寺経元、庭田重保織田信長への報告をしなかったことについて、信長が伝奏の公家を咎める。以後は朝廷での協議のうえ信長にも伝えるようにと定められる。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年7月6日条

天正4年 1576年 7月21日 54歳
吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 8月6日 54歳
村井貞勝勧修寺晴右のもとを訪れ、7月6日に織田信長が折檻した晴右、中山孝親庭田重保、甘露寺経元を信長が赦免した旨を伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年7月6日条

天正4年 1576年 8月20日 54歳
吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 9月26日 54歳
吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月2日 54歳
中山孝親庭田重保、吉田兼見が勧修寺晴右のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月1日 55歳
勧修寺晴右が死去する。
出典:『兼見卿記』同年月4日条、『系図纂要』「勧修寺」

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.