人 物 史

二条晴良 にじょう はるよし
生 没 年大永6年(1526)4/16-天正7年(1579)4/29
出 身-幼 名-
別 称-
法 名浄明殊院
戒 名-
二条尹房九条経子
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者位子(伏見宮貞敦親王の娘)
九条兼孝二条昭実義演鷹司信房
官 位左大臣、関白
氏 族 門 流藤原北家二条家
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
二条晴良 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
大永6年15264161二条晴良が生まれる。-
天文8年153932314権中納言に任官。『系図纂要』「二条家」
天文10年154131916権大納言に任官。『系図纂要』「二条家」
天文12年15435818右近衛大将に任官。『系図纂要』「二条家」
天文14年15456220内大臣に就任する。『系図纂要』「二条家」
天文15年154631321右大臣に就任する。『系図纂要』「二条家」
天文16年154721722左大臣に就任する。『系図纂要』「二条家」
天文17年1548122723関白に就任する。藤氏長者となる。『系図纂要』「二条家」
天文22年1553112028子・九条兼孝が生まれる。『系図纂要』「九条家」
弘治2年155611131子・昭実が生まれる。-
永禄1年155882033子・義演が生まれる。-
永禄8年1565102540子・鷹司信房が生まれる。『系図纂要』「鷹司家」
永禄11年156813043水無瀬、勧修寺晴右二条晴良のもとへ赴く。
曇華院へ礼に赴く。杉伊、加州と将軍宣下について談合する。
『晴右記』同年月日条
永禄11年1568122443准三后に准ぜられる。『系図纂要』「二条家」
元亀4年15734548禁裏が足利義昭織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄、庭田重保を織田勢の本陣である知恩院に派遣する。勅使3名は信長と対面する。『兼見卿記』同年月日条
元亀4年15734748織田信長が和睦の使者として織田信広佐久間信盛細川藤孝足利義昭のもとに遣わす。義昭は3名に対面する。『兼見卿記』同年月日条
元亀4年157342748足利義昭織田信長の和睦が成立する。『兼見卿記』同年月日条
天正4年157632851二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継山科言経葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。『言経卿記』同年月日条
天正4年15764751山科言継二条晴良邸を普請中の報恩寺を見物する。大概完成しており、大工は見えず、壁塗りばかりが行われている状態であったという。貴賎男女も見物していたという。『言継卿記』同年月日条
天正4年15764951報恩寺二条晴良邸の作事がおおよそ完了する。この日、晴良が移徙を予定していたが、悪日のため10日に延期となる。『言継卿記』同年月日条
天正4年157641051未刻(13-15時)、二条晴良昭実父子が報恩寺に造作した屋敷に移る。『言経卿記』同年月日条
天正4年157641251二条晴良報恩寺の跡地に建てた屋敷に移る。吉田兼見が訪れ対面する。兼見と神道について雑談する。『兼見卿記』同年月日条
天正4年15765251公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条
天正4年15765351織田信長二条晴良のもとを訪れる。
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」
天正4年15766651織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条
天正7年157942954二条晴良が死去する。『多聞院日記』同年月30日条、『系図纂要』「二条家」
人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.