和暦 |
西暦 |
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年齢 |
事項 |
出典 |
大永6年 | 1526 | 4 | 16 | 1 | 二条晴良が生まれる。 | - |
天文8年 | 1539 | 3 | 23 | 14 | 権中納言に任官。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文10年 | 1541 | 3 | 19 | 16 | 権大納言に任官。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文12年 | 1543 | 5 | 8 | 18 | 右近衛大将に任官。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文14年 | 1545 | 6 | 2 | 20 | 内大臣に就任する。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文15年 | 1546 | 3 | 13 | 21 | 右大臣に就任する。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文16年 | 1547 | 2 | 17 | 22 | 左大臣に就任する。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文17年 | 1548 | 12 | 27 | 23 | 関白に就任する。藤氏長者となる。 | 『系図纂要』「二条家」 |
天文22年 | 1553 | 11 | 20 | 28 | 子・九条兼孝が生まれる。 | 『系図纂要』「九条家」 |
弘治2年 | 1556 | 11 | 1 | 31 | 子・昭実が生まれる。 | - |
永禄1年 | 1558 | 8 | 20 | 33 | 子・義演が生まれる。 | - |
永禄8年 | 1565 | 10 | 25 | 40 | 子・鷹司信房が生まれる。 | 『系図纂要』「鷹司家」 |
永禄11年 | 1568 | 1 | 30 | 43 | 水無瀬、勧修寺晴右が二条晴良のもとへ赴く。 曇華院へ礼に赴く。杉伊、加州と将軍宣下について談合する。 | 『晴右記』同年月日条 |
永禄11年 | 1568 | 12 | 24 | 43 | 准三后に准ぜられる。 | 『系図纂要』「二条家」 |
元亀4年 | 1573 | 4 | 5 | 48 | 禁裏が足利義昭と織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄、庭田重保を織田勢の本陣である知恩院に派遣する。勅使3名は信長と対面する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 4 | 7 | 48 | 織田信長が和睦の使者として織田信広、佐久間信盛、細川藤孝を足利義昭のもとに遣わす。義昭は3名に対面する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
元亀4年 | 1573 | 4 | 27 | 48 | 足利義昭と織田信長の和睦が成立する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 3 | 28 | 51 | 二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継、山科言経、葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。 | 『言経卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 4 | 7 | 51 | 山科言継が二条晴良邸を普請中の報恩寺を見物する。大概完成しており、大工は見えず、壁塗りばかりが行われている状態であったという。貴賎男女も見物していたという。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 4 | 9 | 51 | 報恩寺の二条晴良邸の作事がおおよそ完了する。この日、晴良が移徙を予定していたが、悪日のため10日に延期となる。 | 『言継卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 4 | 10 | 51 | 未刻(13-15時)、二条晴良・昭実父子が報恩寺に造作した屋敷に移る。 | 『言経卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 4 | 12 | 51 | 二条晴良が報恩寺の跡地に建てた屋敷に移る。吉田兼見が訪れ対面する。兼見と神道について雑談する。 | 『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 2 | 51 | 公家衆の二条晴良、九条兼孝、一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親、菊亭晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅敦、山科言継、庭田重保、高辻長雅、葉室頼房、持明院基孝、柳原淳光、四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊、正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長、水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄、大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。 山科言継、山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。 | 『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条 |
天正4年 | 1576 | 5 | 3 | 51 | 織田信長が二条晴良のもとを訪れる。 早朝、原田直政が先陣に三好笑岩・根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀、佐久間信栄、荒木村重、猪子高就、大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。 | 『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」 |
天正4年 | 1576 | 6 | 6 | 51 | 織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良・昭実父子、近衛前久・信基父子、飛鳥井雅敦、勧修寺晴豊、烏丸光康・光宣父子、山科言継・言経父子、持明院基孝、中山孝親、庭田重保、葉室頼房、広橋兼勝、冷泉為純、薄以継、大乗院尋憲、一乗院尊政、大覚寺尊信、聖護院道澄が訪れ、対面する。 | 『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条 |
天正7年 | 1579 | 4 | 29 | 54 | 二条晴良が死去する。 | 『多聞院日記』同年月30日条、『系図纂要』「二条家」 |