人 物 史

勧修寺晴豊 かじゅうじ はれとよ
生 没 年天文13年(1544)2/24-慶長7年(1602)12/8
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名清雲院殿義同三司孤月西円大居士
勧修寺晴右粟屋元子(粟屋元隆の娘)
兄 弟 姉 妹勧修寺晴豊、晴子(誠仁親王妃)、万里小路充房、日袖、娘(正親町三条公仲の妻)
配 偶 者-
勧修寺光豊、甘露寺経遠、伊達行源、坊城俊昌、阿部致康、鳳林承章、娘(佐久間安政の妻)
官 位右大弁、左大弁、権中納言、権大納言
氏 族 門 流藤原北家高藤流甘露寺支流
参 考 文 献勧修寺晴豊に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
勧修寺晴豊 年表
天文13年 1544年 2月24日 1歳
勧修寺晴豊が生まれる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

弘治1年 1555年 10月23日 12歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 15歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月18日 22歳
知恩寺にいる三好長逸革堂にいる三好義長のもとに山科言継勧修寺晴豊が礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 27歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀3年 1572年 12月28日 29歳
右大弁となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正1年 1573年 7月28日 30歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 3月28日 31歳
左大弁となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正3年 1575年 8月14日 32歳
越前一向一揆を討ち滅ぼした織田信長のもとへ勅使として赴く勧修寺晴豊と同道していた吉田兼見が明智光秀のもとに見舞いに訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月17日 32歳
北庄(越前国)にいる織田信長のもとへ勅使・勧修寺晴豊が訪れる。吉田兼見が同道。取次は村井専次。
兼見が柴田勝家原田直政に手縄、腹帯を、細川藤孝に菓子を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月20日 32歳
越前国の一向一揆攻めを進める織田信長のもとへ見舞いとして織田信長のもとへ赴いていた勧修寺晴豊が帰京する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月21日 32歳
越前一向一揆攻めの織田信長を見舞うため越前に赴くにあたり同道した吉田兼見のもとへ赴き便宜提供をはかってくれたことへの礼を述べる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月22日 32歳
吉田兼見が勧修寺晴豊のもとに21日の返礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 12月2日 32歳
勧修寺晴豊岐阜城(美濃国)より上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 12月7日 32歳
子・光豊が生まれる。
出典:-

天正4年 1576年 3月18日 33歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三條西公国、山科言経勧修寺晴豊、雅敦、三条公宣、毘沙門堂公厳、万里小路充房、西洞院時通、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月20日 33歳
飛鳥井雅敦邸の庭にて蹴鞠が行われる。参加者は三条西実枝、雅教、高倉永相、山科言経勧修寺晴豊、雅敦、烏丸光宣、日野輝資、三条公宣、広橋兼勝、高倉永孝、薄以継、五辻元仲。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 33歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日 33歳
勧修寺晴右、甘露寺経元、中山孝親冷泉為純村井貞勝が、織田信長本願寺顕如の戦いについて話し合う。貞勝は禁裏よりすぐに勅使を派遣するように4名に要請し、晴右が明日にでも勅使を派遣すると返答する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日 33歳
勧修寺晴豊、甘露寺経元が、本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもとにが勅使として赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月6日 33歳
織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 12月29日 33歳
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正5年 1577年 1月1日 34歳
父・晴右が死去する。
出典:『兼見卿記』同年月4日条、『系図纂要』「勧修寺」

天正5年 1577年 10月6日 34歳
吉田兼見が勧修寺晴豊と面会する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 4月9日 35歳
灸治をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 9月7日 35歳
勧修寺晴豊が賀茂伝奏を命じられる。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正6年 1578年 9月24日 35歳
上洛した織田信長の迎えに赴く。
晴豊、甘露寺経元が立本寺に赴く。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正8年 1580年 3月1日 37歳
禁裏より織田信長本願寺顕如の和睦のため、近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が勅使として顕如のいる大坂本願寺に赴く。勅使に佐久間信盛松井友閑が添えられる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 7月2日 37歳
本願寺顕如織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。
出典:『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 8月2日 37歳
大坂本願寺に籠城を継続していた教如織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が、信長からの使者として松井友閑佐久間信盛矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。
出典:『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正10年 1582年 2月7日 39歳
村井貞勝勧修寺晴豊織田信長が信濃国の半分を手に入れたと語る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 3月1日 39歳
勧修寺晴豊誓願寺御経に赴く。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 3月22日 39歳
武田勝頼、武田信勝、武田信豊の首が京都に到着する。下御霊社に首をさらす。勧修寺晴豊が晒された首を見物する。
出典:『晴豊記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 9月9日 39歳
羽柴秀吉勧修寺晴豊に、織田信長の葬儀執行につき、羽柴秀勝に準備を命じているが葬儀を行う寺院については決めていないので、どの寺でも構わないので勅定を下してもらえるよう依頼する。
出典:天正10年9月9日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-483号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-484号)、天正10年9月9日付羽柴秀吉所領宛行状(『豊臣秀吉文書集』1巻-485号)

天正10年 1582年 12月27日 39歳
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

天正13年 1585年 3月1日 42歳
公家衆が羽柴秀吉に参礼する。諸大名も出仕。勅使の菊亭晴季・久我敦通・勧修寺晴豊・中山慶親が秀吉に太刀を渡し、秀吉はその太刀を受け取る。次いで織田信雄を大納言に任じる口宣案が読み上げられる。秀吉が信雄の大納言就任を依頼ししたため。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 42歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月19日 42歳
今出川晴季・吉田兼見・柳原淳光・中山慶親・勧修寺晴豊・白川雅朝が仙洞御所作事所にいた前田玄以のもとを訪れ、伊勢遷宮の件で内宮・外宮の申状を伝える。玄以は羽柴秀吉の裁可を仰ぐべきと回答する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 閏8月27日 42歳
前田玄以今出川晴季勧修寺晴豊千宗易が小御所に赴き、茶湯所を見分する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正16年 1588年 3月12日 45歳
北野社の檜皮葺の費用として、里村紹巴が黄金2枚を、孝蔵主・勧修寺晴豊・帥局が黄金1枚を、直江兼続が米100石を、薄田若狭守が銀子2枚を、中大が銀子1枚を、曲直瀬道三が銭500疋を、心前・庵叱が銭300疋を、紹府・楚仙が銭200疋を、了喜・玄仍・正祐・小梅が銭100疋を、一欧軒が米1石、文閑が銀5文目を寄進する。
出典:天正16年3月12日付北野檜皮葺奉加帳(『北野天満宮史料 古記録』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正16年 1588年 4月16日 45歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「代々をへん 君が恵の 深き色を 松の縁に かけて見すらむ」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 7月29日 45歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家豊臣秀長邸に赴く。豊臣秀吉も秀長邸に赴き、聖護院道澄今出川晴季織田信雄勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、徳川家康豊臣秀次宇喜多秀家上杉景勝蜂屋頼隆細川忠興島津義久、龍造寺政家、立花宗茂が相伴する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正18年 1590年 1月7日 47歳
勧修寺晴豊が千少庵のもとへ茶の湯に赴く。
夜、大坂(摂津国)に到着する。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月9日 47歳
勧修寺晴豊が大坂(摂津国)より上洛する。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月16日 47歳
勧修寺晴豊徳川長丸に礼に赴き小袖1重を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月19日 47歳
徳川長丸勧修寺晴豊に綿50把を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月21日 47歳
豊臣秀吉浅野長政のもとを訪れ、能楽を見物する。秀吉に今出川晴季勧修寺晴豊、中山、日野、高倉、前田利家施薬院全宗が相伴する。
出典:『晴豊記』同年月日条、能楽番組書(『伊達家文書』1-468号)

天正18年 1590年 2月13日 47歳
豊臣鶴松の初めての上洛につき今出川晴季勧修寺晴豊が三条まで迎えに赴く。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 2月15日 47歳
勧修寺晴豊が上洛した本多豊後守に両種指樽1荷を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 2月16日 47歳
本多豊後守が勧修寺晴豊のもとを訪れる。樽代100疋を晴豊に贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 49歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月6日 50歳
正親町上皇が崩御する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 53歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長7年 1602年 12月8日 59歳
勧修寺晴豊が死去する。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

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