人 物 史

勧修寺光豊 かじゅうじ みつとよ
生 没 年天正3年(1575)12/7-慶長17年(1612)10/26
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
勧修寺晴豊土御門有脩の娘
兄 弟 姉 妹勧修寺光豊、甘露寺経遠、伊達行源、坊城俊昌、阿部致康、鳳林承章、女(佐久間安政の妻)
配 偶 者太田一吉の娘
勧修寺教豊、勧修寺経広[養子]
官 位権大納言
氏 族 門 流藤原北家高藤流甘露寺支流
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる勧修寺光豊の呼称
勧修寺光豊 年表
天正3年 1575年 12月7日 1歳
勧修寺光豊が生まれる。
出典:-

天正5年 1577年 1月1日 3歳
祖父・晴右が死去する。
出典:『兼見卿記』同年月4日条、『系図纂要』「勧修寺」

天正18年 1590年 1月14日 16歳
勧修寺光豊が上洛している徳川長丸に礼として太刀、折紙を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 18歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月6日 19歳
正親町上皇が崩御する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 22歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 24歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 12月24日 27歳
広橋兼勝勧修寺光豊舟橋秀賢近衛信尹のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長7年 1602年 3月16日 28歳
三宝院義演が根来寺中性院専誉の極官についての勅許を勧修寺光豊に依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 12月8日 28歳
父・晴豊が死去する。
出典:『系図纂要』「勧修寺」

慶長8年 1603年 2月12日 29歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 8月30日 30歳
本願寺教如勧修寺光豊邸へ向かう。その後、御堂衆5人を御供とし、100名以上を引き連れ参内する。衣装は絹袴に直綴で、金の中浮を持つ。禁裏へ太刀・馬代として銀子20枚・綿100把、女院御所へ綿100把・銀子10枚、親王へ太刀・馬代銀子10枚・杉原5束を進上する。清涼殿西間で後陽成天皇に対面する。つぎで仙洞御所に赴く。どちらにおいても1献もなし。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)、『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月10日 30歳
勅使の広橋兼勝勧修寺光豊徳川家康のもとを訪れ、後陽成天皇が緞子10巻を、親王が焼物を家康に贈る。摂関家の関白・一条内基、前関白・二条昭実九条忠栄、鷹司信尚、門跡の照高院道澄、妙法院常胤、梶井宮最胤、随心院増孝、一乗院尊政が家康のもとに礼に訪れる。ついで堂上公家衆の大炊御門経頼、大炊御門頼国、烏丸光宣、万里小路充房、高倉永孝、飛鳥井雅庸、花山定好、西洞院時直が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 10月10日 30歳
禁裏にて能を催す。大夫は下間仲孝。後陽成天皇、女院、妙法院常胤、聖護院興意、八条宮智仁親王、近衛信尹一条内基、鷹司信尚、万里小路充房、万里小路兼房、山科言経山科言緒持明院基孝、持明院基久、中院通勝、勧修寺光豊、白川雅朝、白川顕成、高倉永高、高倉永慶、鷲尾隆尚、水無瀬氏成、水無瀬兼俊、五辻兼俊、阿野実顕、四辻季継、富小路秀直、猪熊教利、平時直、難波宗勝、小川坊城俊昌、飛鳥井雅賢、滋野井冬隆、甘露寺豊長、中御門宣衡、高倉嗣良、竹内孝治、藤波種忠、舟橋秀賢が参会する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 31歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長17年 1612年 1月17日 38歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。後陽成上皇に鷹狩で狩った鶴を進上する。伝奏の広橋兼勝勧修寺光豊に雁3羽を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 10月26日 38歳
勧修寺光豊が死去する。
出典:-

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